恵日寺

陸奥国 耶麻郡 川西組 本寺村 恵日寺
大日本地誌大系第32巻 26コマ目
※国立公文書館『新編会津風土記53』より

山城国醍醐山金剛王院の末寺真言宗なり。
山號を磐梯山という。

縁起を案ずるに、磐梯山もとは病悩山とて魔魅(まみ)すみ居て常に祟をなし稼穡(かしょく)を害せり。しかのみならず山麓に民居数多ありしに、大同元年(806年)暴に1大湖となれり。
(かか)る災異朝*1に聞えしに因り、同2年(807年)空海勅を奉じてこの地に来り(空海が歌なりとて『布引と聞てきたれば更科の月輪潟に着とおもへば』という詠あり)、河沼郡(代田組八田野村にその遺蹝あり)にて10日程秘法を修しければ、魔魅はその別峯烏帽子嶽まで失去りぬ。斯て空海山の名を磐梯と改め且永く災異鎮防の為にとて当寺を開かんことを諜り三鈷の杵を投て霊区を卜せしに、その杵雲中に入と見しが落てこの山の紫藤の上に懸れり(今の三鈷藤これなり。また寺に伝うるに空海加持せし時大蛇逃去り、その尾この地に当れる(ゆえ)尾寺といいしとぞ)、因てこの地に当寺を創立し、丈六の薬師の金像・日光・月光・十二神将・四天王等を安置せり。この時に山神形を現しければ、空海これを祝い祭て磐梯明神と称し舞楽を奏じて明神舞と名く。また戒壇を建て受戒せしめ寳祚を祈て巻数を奉じければ、叡感の余当郡の官租を免じて永く寺料とせらる。その後空海この寺に住せること3年にして僧侶300余人に及びしが、大同5年都に帰るべき由勅ありしに因り当寺は徳一に属して帰れりという。

(大師行状起という書に、陸奥国会津に空海精舎を建て慧日寺と號け徳一に属すとあり。然れども今昔物語に徳一が建たる恵日寺とあり。また神明鏡に徳溢奥州会津に清水寺を建て観音を安置すと見え、百因縁集には徳一奥州会津(いは)梯山に清水寺を建立し弟子今與という者にこの寺を属せし由あれば、清水寺は当寺の別称にて徳一の開基とは見えたり。且大同元年空海帰朝の後同2年までは筑前国御笠郡観音寺に居しと聞ゆ。これ等の説縁起の載する所と異なるゆえここに併録す。百因集に載する今與というもの詳ならず。法系第3世に金耀という僧あり、この僧の名を写し訛しにや。また徳一が歌なりとて『縁あらば我又こんよいははしの山のふもとの清水の寺』という詠あり)

徳一当寺に住せしより以来相続て寺門益繁栄し子院も3800坊に及び、数理の間は堂塔軒を比し(舊事雑考應安4年(1371年)の記に、恵日寺塔供養とあり)(いらか)を並べ壮麗言計なかりしとぞ。されば会津四郡の地大方は寺領なりしに、壽永の頃(1182年~1184年)越後城四郎長茂越後国蒲原郡小川荘を割て当寺の衆徒頭乗丹坊に与えければ寺産益饒なりしが、信州横田河原の戦に乗丹4郡の兵を率て進発し彼地にて討死せり(平家物語に出。また源平盛衰記に乗丹坊を勝諶房に作る。またその子息藤新大夫、奥山権守その子の横新大夫、伴藤別当としるせり。この4人の事詳ならず)。因て当寺もやや衰えしという。されども永正の頃(1504年~1521年)まではなお宏基巨構にして院宇も多かりしと見え、その図今に残れり。

(村老の口碑に、当寺繁栄の時は寺領今を以て見るに18万石計なりしという。また倉屋太郎兵衛・薄井平右衛門・深澤清七郎・桑原主計・鈴木五郎左衛門・大工倉之丞・檜田鴨之丞・近藤治右衛門・磯部十郎右衛門・伊南居治郎右衛門・唐桶美濃・馬場若狭・湯田土佐などいうもの寺務を司りしという。また葦名四天宿老の巨魁たりし富田氏の先も当寺の役人なりしという)

葦名義廣の頃は寺産も漸衰え、わずかに八田野・居合・柳原の3村を所務せり。天正中(1573年~1593年)伊達氏の乱に坊舎残なく兵火に罹り衆徒みな退散せしが、当寺の撿挍(けんぎょう)歓喜院玄弘という者兎に角してこれを防ぎ、ただ金堂のみ火災を免るという。然れどもその霊跡なるに因り伊達氏より常三橋竹屋にて300貫文の地を寄付せり。蒲生氏郷の時これをも失しが、秀行に至り50石の寺料を賜う。明暦中(1655年~1658年)肥後守正之これを修営し50石の地を寄付せり。

今は昔の形なけれども古蹟・遺蹝四方の原野に棊布し、その余舞師・田笛・吹田・大鼓田・香田・油田・四十坊・数萬燈等の字田圃(たんぼ)の間に遺り古の全盛想像するに堪たり。
薬師の霊像は今に存して霊験多く、古器・文書等なお少からず。みな下に舉く。
末寺21ヶ寺あり。

制札

橋の前にあり。

燈明坊

路の右にあり。

花川に架す。
長9尺、日橋と大谷橋とこれを併て恵日寺の三橋という。

二王門

6間に2間。
左右に力士の像を安ず。

鐘楼

二王門を入て右にあり。
9尺四面。
寛文中(1661年~1673年)まで『奥州磐瀬郡牛袋村廣福山長禄禅寺住持忠譽玄信大檀那藤原續義宿老道俗男女以助縁鑄直之本願須田備前守享禄四年辛卯四月八日』と彫付けし鐘あり(享禄4年:1531年)。この鐘毀れて延寶中(1673年~1681年)に再鑄る。
径2尺1寸『延寶七年己未六月十二日當寺五十五世真言比丘尊恱誌本願主田邉市左衛門重秀』と彫付けあり(延寶7年:1679年)。銘あれども煩しければ略す。
また相伝ふ。往古当寺の鐘はその音南都興福寺の鐘に似たり。いつの頃にか盗賊ありしが、うち破てこれを(ひさ)ぐともいい、或いは甚重くして運送に苦み日橋川に投すともいう。今堂島新田村辺の淵底にありといい伝う(堂島新田村の伝る所と異なり。併せ見るべし)。

金堂

7間半に5間、南向き。下に石を並べ敷て基とす。高3尺計。前に石階あり。四方に幅4尺5寸の石の縁めぐれり。
丈六薬師の像を安置す。空海作といい伝う。舊事雑考・觀應元年(1350年)の記に、大寺薬師安座とあるはこの堂に安置せし始にや詳ならず。
應永25年(1418年)回禄に罹り全軀燒亡せんとせしを、左手と藥壺とを取上て修補す。寛永2年(1625年)の火災にもまた然り。
会津五佛の一なり。
脇士日光・月光・十二神将(この中2軀は空海作という)空海が作れる大国賓頭盧の像を安置す。
鰐口1口あり。『寛永三丙寅四月八日中興開山座主日道』と彫付けあり(寛永3年:1626年)。
また障子とて絹地に獅子を縫いつけ帷の如きものあり。今は長5寸3分に幅7寸程残れり。黒糸にて文字を縫えり。『奉施入障子一本薬師如来御寶前承久三年辛巳正月日施主蓮阿生年七十』とあり(承久3年:1221年)。
金堂にて勤行の式も古来より伝わる所の禮亡て多くは存せず。

正月元日より8日まで祈祷あり。同7日院主・衆徒参籠し追儺の式を行う。
2月13日より同16日まで国祭あり。
4月7日より9日まで合式あり。
11月6日より9日まで徳一の法楽八講の法則を行う。
12月朔日より8日まで祈祷あり。

大頭小頭

金堂の辰巳(南東)の方に柵を繚らし、その中に2本の柱を建て上に2の櫝を置て佛體を封ず。秘佛にて見る者なり。
9月21日これを負て諸村を巡る。民みな秋収の初穂を供す。

磐椅神社

金堂の戌亥(北西)の法にあり。
当寺草創の時祭れる所なり。
鳥居2 
一は両柱の間1丈。一は両柱の間9尺。
本社
1間半に5尺、南向き。
中に前机あり。『奥州會津惠日寺大師堂ノ前机慶長五庚子八月朔日玄弘之二脱同脇机一ツ求之』としるせり(慶長5年:1600年)。(二脱は二脚の誤にや)。

八幡宮

金堂の西1町余にあり。
鎮座の初しれず。鳥居あり。
相殿9座あり。
相殿
稲荷神
春日神
熊野宮
諏訪神
宗像神
天神
大谷神
伽羅於化神
青龍神

龍像神社

金堂の戌亥(北西)の方8町計にあり。
祭神詳ならず。
祠の下に小池あり。龍が澤という。空海請雨の法を修せし所なりという。
また龍化石という石あり。周6尺・高3間計。歌あり、空海が詠なりという。
龍石をまつりて置そ澤入に後の世まての雨請のため
また昔時龍が澤より得る所なりとて今なお唐銅にて鑄たる蟠龍を恵日寺に蔵む。大さ蜥蜴の如し。その製古雑なり。大旱の時はこの蟠龍と中将姫の請雨経とを携て住僧ここに至り請雨の法を修す。
鳥居あり。

羽黒神社

金堂の北15町、山上にあり。
鎮座の年月詳ならず。
鳥居あり。

国祭

金堂の条下にしるせしごとく2月13日磐椅明神の仮屋を造り幣帛を磐梯の本社より遷し来り読経す。
同14日衆徒・院主三時の祈祷あり。
15日船を堂前におき白米を盛りこの村のもの聚りてこれを争い牽く。東を上とし西を下とす。その船の往く方にてその年の米價の貴賤を卜す。その後金堂にて明神舞あり(昔は仮屋の前に舞台を設てこの舞を行いしとぞ)。当寺草創以来伝うる所なり。2人各日光・月光の仮面をかうふり、外に3人笛を吹き大鼓を鳴し撃節す。その舞畢りて明る16日の朝、その神體を本社に還し納む。

閼伽井

金堂の北にあり。
周5尺、空海修法の閼伽(あか)*2に用いしという。

三鈷藤

閼伽井の上にあり。
三鈷を擲ちしとき懸りし藤なりという。

徳一廟

金堂の北にあり。
土を高く封じ四方に石垣を繚らして上に塔を建て傍に古松樹あり。永正の古図に拠るに、この上に屋を構えしと見ゆ。因てなお廟の名存せしにや。
徳一(或は得一・徳溢に作る者あり)は藤原恵美*3朝臣の子なり。元亨釈書に『徳一学相宗于修圓甞依本宗作新疏難破傳教大師一闢常州筑波山寺門葉益茂而嫉沙門荘侈麤食弊衣恬然自怡終惠日寺』とあり。またこの寺に伝わるは徳一11月8日(年代しれず)常州筑波にて寂せしを、その日徳一弟子当寺の3世金耀霊異の告ありしかば、速に彼地に至りその尸を奉じ帰んと欲す。筑波の僧侶きかず、因てその頭をとり来り(ここ)に葬るという。

金耀墓

徳一の墓の東にあり。
その上に塔を建。後人の再修せしにやその世の物とは見えず。
徳一の弟子にて当寺の第3世なりという。履歴詳ならず。

乗丹坊塔

金堂の辰巳(南東)1町世にあり。
高9尺、四面に梵字4字を彫る(乗丹の事上に載す)。

古碑

金堂の北の林中にあり。
野面石にて3尺計あり。上に梵字を彫り下に『造立本願正座主玄昌上人為現世安穏後生善所也慶長十六天五月吉』とあり(慶長16年:1611年)。

佐藤勘解由墓

金堂の北にあり。
これも高3尺計の野面石なり。『為道律菩提也』と彫付けあり。昔当寺の役人なりしという。年代の彫付けなけれどもその製近代の物と見えず。

篭所

金堂の西南にあり。
2間に1間半、祈祷の時坊中参篭の所なり。

仮殿

篭所の東南にあり。
2間に1間半。
国祭の時磐椅明神大頭子頭18末社をこの所に遷座す(18末社寛文中(1661年~1673年)肥後守正之神社改定のとき多くは八幡宮の相殿とす)。

本坊

総門

二王門の前の通より西に折れ北に向て橋を渡りこの門に至る。
2間に1間2尺。

観音堂

門を入て左にあり。
3間四面、西向き。
如意輪観音の座像を安ず。長1尺2寸。

客殿

11間に8間、南向き。
これより廊下ありて庫裏に通す。
本尊千手観音の立像、長3尺。徳一作という。
空海作の不動・毘沙門・愛染明王・聖徳太子の像あり。
外に秘佛の薬師・日光・月光ならびに十二神将あり。

六供

欠員ありて今は4供となれり。ともに先祖は徳一の父藤原恵美朝臣に事えし者なり。徳一を慕い当寺に来るという。乗丹坊衆徒を引連れ信州に進発せし時4供を残し置て当寺を守らしめしという。

澤之坊
先祖は佐原玄興とて徳一を慕て来れりという。寛永より以前(~1624年)の世代をしらず。玄照というより現住玄隆まで7世なり。

谷之坊
その先は木野田喜勝とて玄興と共に来れりという。元和の頃(1615年~1624年)喜教というより現住善覺まで8世、それより以前の事は伝わらず。

巖之坊
先祖は大竹道照とて善勝と共に来れりという。寛文中(1661年~1673年)道慶という者あり、その先はしれず。現住道隆は道慶が7世の孫なり。

峯之坊
先祖は秋山俊元とて道照と共に来れりという。寛文の頃(1661年~1673年)俊養という者あり。その先しれず。現住俊教は俊養が6世の孫なり。

社家 橋本忠大夫

その先しれず。延享の頃(1744年~1748年)善香というより今の忠大夫喜明まで4代なり。

寶物

空海画像    1幅。自画という。
般若十六善神画 1幅。空海筆。
五大尊画    1幅。同上。
不動尊画    1幅。同上。
十三佛画    1幅。同上。
安全明王画   1幅。同上。
毘婆沙論    1幅。同上。
天竺蓮実念珠  1連。空海の所持という。
三鈷      1箇。空海この地に来り霊区を卜せんとて投し物なりという。
独鈷      1箇。
念珠      1連。徳一の所持という。
銅印      4顆。その図如左
平城天皇より賜りしという。径1寸3分。
嵯峨天皇より賜りしという。径大抵同上。
淳和天皇より賜りしという。径1寸1分。
白河院より賜りしという。径1寸。
共にその製古雅なり。

鐵鉢      1口。高1尺6寸・径2尺2寸5分。形鼎に似て古雅なり。周りに『□永(應永なるべし)□七年八月□□外諸旦那庤現世安穏後生善□大工円乗智阿□尼公同□□外慧日寺金堂鉢天長久御願円満殊願主正座主卞玄託檀那円□□□光重行妙公威重』と鑄付あり。
十二天     12幅。白川法皇宸筆。
後花園院御歌書 1巻。
法華経     1巻。菅丞相筆。
請雨経     1巻。当麻中将姫筆。
大般若経    1軸。弁慶筆。
佛性寺     1箇。当寺の子院佛性寺の所蔵なりしという。その銘佛性寺磬とあり。
薬師経     1巻。奧書あり。左のごとし。
関左常陽之産雲蛍書永禄第八龍集木牛卯月初三
とあり。また裏に
伊達政宗會津え打入之時分大寺院家光明院質置被流候を□新寄進明園坊澄舜為現世安穏後生善處也
とあり。

日光月光仮面  各1枚。極て古物なり。
大多坊面    1枚。
翁面      1枚。

大多坊の舞とて毎年舞ありしが今は亡ふ。大多坊の面と翁面とはその舞に用いしという。翁面は欠損す。極めて古物なり。

権大僧都宥快筆 1枚。佛語にて中に梵字を雑ゆ。末に『應永十三年十二月十三日法印権大僧都宥快』とあり(應永13年:1406年)。
当寺永正古図  1幅。その図如左(※本ページのトップの画像)
如蔵尼所持尺  1箇。その図如左

四所明神    1幅。空海筆。
大錫杖     1枝。徳一所持という。
牛玉印刻板   1枚。
大国印刻板   1枚。

板後に『奥州會津磐梯山慧日寺求聖正座主玄朝永喜貳年丁亥卯月八日□□聖昌珎』と彫付けあり。
(案ずるに永喜の年号なり。永承2年丁亥(1047年)の誤にや。聖昌の上2字弁じ難し)

大師行状記   10巻。尾に左の書付あり。
欽薬師御寶前奉納之者也 圖畵十巻 惠日寺常住玄弘法印代新寄進特参一家成佛
  于時天正十九年辛卯  岡村兵部丞忠久
             同 甚左門常久

胎曼荼羅    1枚。
側に『胎曼荼羅惠日寺光明印常住會津黒川福聚山宥鎮書進之弘治四年戊午三月廿一日』とあり(弘治4年:1558年)。また寛文中(1661年~1673年)まで『奥州會津河沼郡惠日寺為常住公物奉施入此尊像也本願聖人加賀阿闍梨宥筭應永十五年仲秋十日』と裏書せし涅槃像1軸あり(應永15年:1408年)。今はなし。

古文書     4通。その文如左(※略)。



最終更新:2020年06月26日 20:36

*1 朝廷

*2 仏前に供える水

*3 藤原恵美:藤原仲麻呂、または恵美押勝