耶麻郡川東組小平潟村

陸奥国 耶麻郡 川東組 小平潟(こひらかた)
大日本地誌大系第31巻 169コマ目

昔小出潟と称す。何の頃にか摂津国牧方(ひらかた)より天満宮の画像を負来り1祠を建て鎮座せしにより今の名に改むという。

府城の東北に当り行程5里13町。
家数27軒、東西42間・南北1町30間。
西は湖水に近く四方田圃(たんぼ)なり。

東4町49間金曲村に隣り、その村際を界とし酸川を限りとす。
西2町20間湖水を限りとす。
南8町12間金曲村に界ふ。
北42間松橋村の界に至る。その村まで7町50間。

山川

松原

村西2町50間余にあり。
西は湖水に臨み白沙極めて清潔なり。数10町の沙汀(さてい)他木なく青松のみ高く聳え、清風常に断す。誠に湖上第一の佳景にて朝睴夕陰気象1ならず。遠近の諸山蒼波に浮動し、眺望甚だ佳なり。
南北22町計・東西町間・南北町間2町計、中に赤沼という小沼あり。これを小平潟・松橋両村の界とし、北7町計は松橋村に属す。
林中に松露を生す。味美なり。

酸川

村東5町にあり。
松橋村の界より来り、南に流れ西に折れ凡10町余流れ湖水に入る。
広30間。

原野

秣場3

一は村より丑(北北東)の方4町20間にあり。東西36間・南北2町45間。
一は村より辰(東南東)の方5町20間にあり。東西2町10間余・南北3町30間余。
一は村より巳(南南東)の方6町にあり。東西3町・南北1町20間余。

関梁

船渡場

村東にて酸川を渡す。
二本松裏街道なり。
この村と金曲村の舟渡なり。
農民の家に蒲生氏より渡せし文書を蔵む。その文如左。
當村舟渡し被仰付候間 無氣遣舟渡可仕者也
  元和九年正月十七日 福西吉左衛門宗長判
            外池信濃守良重 判
            本山豊前守安政 判
            稲田数馬助貞忠 判
  猪苗代内小平潟村 肝煎百姓中

水利

上山下堰

松橋村の方より来り田地の養水とし下流湖水に入る。

神社

天満宮

祭神 天満宮?
鎮座 不明
村の未申(南西)の方5町20間、松原の中にあり。
蒼翠社頭に掩映して湖山の景(すこぶ)る佳し。
もとは村東にあり。今その遺址に幹梅とて古梅存せり。
昔何人にか摂津國牧方より菅神の画像を持来りここに祭るという。
まあ衣冠の木像、長6寸7分なるを造り納めしとぞ。
元和3年(1617年)蒲生氏の臣茅原田長裕再建す。
寛永12年(1635年)加藤氏内蔵助明友これを修補す。
天和2年(1682年)筑前守正経今の地に遷せり。
6月25日祭禮あり。
制札 鳥居の外にあり。
鳥居 両柱の間8尺。
本社 5尺四面、西向き。
幣殿 2間に1間。
拝殿 3間に1間半。
神厨 本社の北にあり。3間に2間。

寶物

天満宮神號  1幅。
後奈良院震翰。
天神画像   1幅。近江関白伊尹公筆。
菅相公真蹟  1幅。
古歌三首   1幅。鐘載筆。
八代集秀逸歌 1軸。同上。奧書あり。その文如左。
此一冊不顧悪筆 爲島崎武庫周隆書之者也
  永正丁卯冬至日  耕閑兼載 花押
※永正丁卯年:1507年

神職 佐瀬主殿

河内平盛継という者の3子平次郎道則7世の孫なり。
寛文の頃(1661年~1673年)まで修験なりしとぞ。

若宮八幡宮

祭神 若宮八幡?
相殿 加和利御前神 本村より移す。兼載が母を祭ると云
鎮座 不明
村東2町余にあり。
鳥居拝殿あり。佐瀬主殿が司なり。

古蹟

館跡

村南5町20間、松原の側にあり。
石部丹後某という者居という。
兼載が遺址は即この地なりとぞ。

幹梅(みきのうめ)

村東天満宮の社跡にあり。
古樹にて枝幹蟠屈せり。幹より花を開く(ゆえ)この名あり。四方に柵を繚らし謾に攀折せざらしむ。

人物

兼載

父は猪苗代式部少輔平盛實とて三浦助義明23世の孫という。
載夙くより佛道に志敦く出家して京師に趣き、應仁文明の頃(1467年~1487年)より種玉庵宗袛に随て連歌を学びその奥旨を伝え、宗袛が風体を一変して絶妙巧尖の句あり。北野会所の預となり禁廷よりしばしば聖藻を賜い、また将軍家より尊て宗匠とせらるという。
一説に往昔この村の地頭石部丹後という者の家に1婢あり。容貌極めて醜くく年(たけ)るまで嫁を得ず、村の天満宮に詣で百日の間通夜して身の行末を祈るに、或夜怪しき人1枝の梅花を投与え左の袂に入と夢みて孕めることあり。13ヶ月を経て載を生り天神の授給う子なればとて幼名を梅という。聰頴(そうえい)人に勝れ性甚だ詠歌を好みしかば、母悦び僧となして後世に名あらしめんとて、今の郭内諏訪神社の社僧自在院(今博労町にあり。縁起には社僧たりしことをつたえず)に到らしめ髪を薙て僧となし、またその頃諏訪の社内に連歌の会あり載その席交わり秀句多く詠し出せしに、会衆その伶利(れいり)を妬み載が来るを距んとて1間の戸を閉過て載を戸間に措しことあり。その戸後には兼載措戸(はさみと)とて自在院に伝えしという。後下野国足利の学校に入り文籍を渉猟(しょうりょう)し、遂に京師に趣き宗袛に従て連歌の奥秘を伝え宗匠となり花の本と称す。初載宗袛に見ゆる時年30。宗袛がいう「凡てこの道のこと能明らめんとならば20年の功を積にあらざれば難し。今吾老たり。10年の齢を過べからず」と。歓しければ載重て夜を以日に継は10年にして至りなんと強ちに請しかば、袛その志を感じ子弟の契約を結び10年にしてみな伝を受ぬ。その後常に禁庭に召され源氏物語を侍講せしに、法橋を授けらるべしとて俗胤を問はる。載その所生の賤きを耻て假に葦名氏たる由勅答し、後猪苗代の主葦名某に請てその家苗を詳せしという。また甞て自在院にありし時常にあたり近き住吉の社(今府下材木町にあり)に詣で和歌の蘊奥を得んことを祈り「兼てぞ栽し住吉の松」という古歌の詞をとり自ら名を兼栽と称すという(総州野渡村萬福寺所蔵の記録にも兼栽に作り栽或いは載に作るとあり。然れども兼載自筆の文書及び流布の猪苗代景図・本朝遯史等みな載に作れば、若くは当時兼栽と称し後改しも知べからず)。
この説世の談する所と大に異同あれども専土俗の伝る所ならばここに注せり。
(さて)その頃古今集の奥義は和歌所堯孝より堯恵に伝え、堯恵より兼載に伝えぬ。宗袛新筑波集を撰び勅撰に准すべき由詔ありし時も載が句を数多撰入き、後本州白川の関の辺に居住をしめて耕閑齊または相園坊と称す。最後古河公方の招に応じ彼地に移住すること数年(今彼地に兼載堀または桜町桜門など称して兼載存世の際桜を植て愛せし古蹟ありとぞ)遂に彼地に在て病に罹り江春庵という医師の許にて身まかれり。時に永正7年(1510年)6月6日、歳59、野渡村萬福寺という禅刹に葬り1株の桜を植えて墓表とす。その(ひこばえ)今にありという。
著わすところ園塵集2巻あり。生平の連歌の稿なり。