耶麻郡川東組金曲村

陸奥国 耶麻郡 川東組 金曲(かねのまかり)
大日本地誌大系第31巻 168コマ目

府城の東北に当り行程5里18町。
家数75軒、東西5町30間・南北1町20間。
二本松裏街道に住す。
西は酸川に()ひ三方田圃(たんぼ)なり。

東5町関脇村の界に至る。その村は卯辰(東~東南東の間)に当り11町余。
西は村際にて小平潟村に界ひ酸川を限りとす。その村まで5町10間余。
南15町余湖水を限りとす。
北7町余夷田新田村の界に至る。その村は亥子(北北西~北の間)に当り10町10間余。

山川

酸川(すかわ)

夷田新田村の界より来り、南に流れ村西を経て西に折れ、凡20町余流れ湖水に入る。
広30間余。

遠嶋(とほしま)

村より未申(南西)の方16町余湖浜にあり。
平沙清潔にて長18町程の州崎なり。
松樹あり。
左右に山水の美を望み漁舟賈帆の往来断す。清絶の佳境なり。

関梁

船渡場

村西にて酸川を渡す(小平潟村の条下に詳なり)。

水利

五箇村堰

夷田新田村の方より来り田地に(そそ)ぎ下流湖水に入る。

神社

金鑄神社

祭神 石凝姥命(いしこりどめのみこと)
相殿 稲荷神
   鹿島神
   山神
   羽黒神
草創 不明
村北館跡の西南にあり。
鳥居幣殿拝殿あり。小平潟村佐瀬主殿これを司る。

寺院

寶生寺

村中にあり。
金玉山と號す。昔猪苗代城下神野寺に隷せしという。今は大町弥勒寺の末山となり真言宗となる。
永享中(1429年~1441年)岡部氏この地を領せし時草創し重想という僧を住職とす。重想湖中の翁島にて密教の奥をさぐりし(ゆえ)老翁山延命寺と號すという。
2世の後その寺廃せり。
寛永中(1624年~1645年)宥盛という僧再修して金玉山寶生寺と號す。
本尊大日客殿に安ず。

石塔1基。

客殿の北にあり。
四面に文字あれども剥落して見えず。應永の年号はさだかに見ゆ。
村老いう。村北に六角という字あり、佐々木六角三郎左衛門時信が子孫住せりと。今も六角氏を称する者村中に残れり。その処よりこの石塔を遷せりという。六角氏の塔にや。

古蹟

館跡

村北にあり。
東西36間・南北37間。四方に隍の形存せり。
永享の頃(1429年~1441年)岡部山城又六郎某という者居るという。
天正中(1573年~1593年)三浦盛國が郎等大堀土佐某・秋屋平右衛門某という者壺下口の押として入置く。盛胤父に追出され横沢に居りしが兼て父子の中和せざれば、父の所領を犯さんとて天正16年(1588年)7月14日小舟4、5艘に取乗て湖水をわたりこの処に不意に押寄せ散々に攻む。2人の者共(こら)え兼て落行しかば、盛胤(やが)て入替る。盛國15日の早朝に矢内八郎左衛門・廣瀬藤内・遠籐太郎兵衛(共に諱を失う)という者に足軽をつけて差越せしを、盛胤は打手の向う由を伝聞中途に出向て一軍す。廣瀬・遠藤等は首数21打取り既に引き返さんとする処へ、後れ駆の勢駆付てまた一軍し若干の郎等打取て猪苗代へ帰り、盛胤もまた相引に引て再び楯籠る。されば盛國は盛胤を打もらせるを安からずおもい、遂に自ら押寄せ陣を取る。かくて猪苗代の騒乱大方ならず。折節盂蘭盆会の齋日なれば、僧侶とも集まり懇に取持しかば共に軍を引しという。その後この館も廃せしにや。今は菜圃(さいほ)となる。
また村の巳午(南南東~南の間)の方5町計田の中に土佐屋敷という字あり。大堀土佐が居りし所にや。





余談。
この辺りも旧月輪村の一部です。
舘ノ内という地名が残っていますが、ここに昔館があったのでしょうか?

金鑄神社の祭神「石凝姥命」は鏡作りの神だそうです。
参考:玄松子の祭神記