耶麻郡

※国立公文書館デジタルアーカイブ「新編会津風土記48」より

【倭名鈔】この郡の下に分会津郡と註あればもと会津郡と一部なりしを、後日橋川の北を割て置れしと見ゆれども何れの頃なること詳ならず。
仁明天皇 承和七年(840年)三月庚辰『陸奥国琊磨郡大領外正八位上勳八等丈部人磨戸一煙に姓を上毛野陸奥公と賜ふ』と続日本後紀に見ゆれば、それより前の事なるべし。
この郡は東西北三方皆山にてその間に村落あれば郡名これに依て起りしならん。されば【倭名鈔】にも山の字を以て註せしにや。慶徳組新宮村熊野宮・暦應四年(1340年)の神器にも山郡と彫附あり。琊磨・耶麻は音が()れるのみにて、その実は山の字の假字(かな)なるべし。
應永の頃(1394年~1428年)の文書には訛て那摩橋と称するあり。【拾芥抄】【節用集】もこの(あやまり)を承けしと見えて共に那摩に作れり。(耶麻郡と称せしことは五目組熱塩村示現寺永和二年(1376年)の寄附状を始とす)。

東は東嶽(あづまたけ)石筵峠(いりむしろとうげ)楊枝峠(やうしとうげ)を界とす。
西は越後国蒲原郡に隣り楢木峠(ならのきとうげ)高森山(たかもりやま)を界とす。
南は会津郡河沼郡に並び日橋川(につはしかわ)を界とす。
北は出羽國置賜郡に連なり赤崩山(あかくつれやま)檜原峠(ひはら)と界とす。
また戌亥の方は出羽国置賜郡・越後国蒲原郡隣り飯豊山(いひてやま)を界とす。
丑寅の方は信夫郡・出羽国置賜郡に隣り吾妻山(あつまやま)の峯土湯峠(つちゆとうげ)と界とす。
辰巳の方は安積郡に連なり高森山(たかもりやま)陸坂(くかさか)を界とし、猪苗代湖の半を限れり。

東西11里30町余(東は安達郡の界沼尻峠(ぬましりとうげ)より、西は越後国蒲原郡の界楢木峠に至る)。
南北6里12町余(南は河沼郡笈川組浜崎村の界より、北は出羽国置賜郡の界檜原峠に至る)。

東西北に高山連なり南に大河流れ中央に広平の地多し。
その田は下の上、その畠は下の上なり。
塩川・小沼・熊倉・小田付・小荒井・慶徳・五目の7組は平衍(へいえん)にて田圃(たんぼ)多く、気候大抵会津郡平衍の諸組に同じ。木曾・大谷・吉田の3組は山中にて花候農務平衍の地よりは(やや)遅し。川東・川西の2組は磐梯吾妻の諸山に倚り猪苗代湖に臨み。
地勢高く風烈く9月の末に初雪ふり、3月の半まで消残り梅花漸く綻ぶ。桜花は4月の初に開く。
農業の時候は上の諸組より20余日の差あり。
習俗は全く会津郡に同じ。

清明の日(4月5日頃)川西組磐椅神社に五穀豊熟の祭りあり。郡奉行以下前日より潔斎(けっさい)し神殿に候し、村々の役人庭上に烈座す。孝悌忠義力田貞節の者その末に列る。祭畢て郡奉行善行の男女を賞して物を与ること差あり(この祭は天明八年(1788年)より挙行ふ所にて慶徳組慶徳村稲荷神社、五目組上三宮村三島神社、大沼郡高田組高田村伊佐須美神社、河沼郡牛沢組塔寺村八幡宮、野沢組野沢村諏訪神社、越後国蒲原郡下條組西村八幡宮にもあり)。

家集 源重之

みちのくににやまのこほりという所ありそこにて冬月を

雲晴て空にみかける月影をやまのこほりといひなおとしそ

此やまの郡に秋ならねともかのこまからに雪ふりけれは

秋くれはなくや小鹿のまだら雪やまの郡はおともせぬかな


郷名

倭名鈔に出る所

  • 津部
  • 量足
  • 分會
  • 津郡
    • 分會、津郡は郷名にあらず。その説前に出す。
  • 日量

今称する所 4

  • 百木(ももき)
  • 小布施(こふせ)
  • 野尻(のしり)
  • 奥川(おくかは)

荘名

  • 更級(さらしな)
    • 川西組磨上原に更級神社あり。荘名これに因て起こりしにや詳ならず。
  • 月輪(つきのわ)
    • 昔何つの頃にか猪苗代湖の水暴に洶涌(きょうゆう)し2荘の村落多く(おち)て湖となりしといい伝う。
  • 岩崎(いはさき)
  • 加納(かのう)
    • 府下寶相寺所蔵、康安元年(1361年)佐原十郎高明が寄付状にこの荘の名始て見えたり
  • 新宮(しんくう)
    • 慶徳組新宮村熊野宮、康暦2年(1380年)の鰐口に『奥州會津新宮荘』と彫付けあり

組名


山川

吾妻山(あつまやま)

川東組酸川野村の北にあり。
奥羽の界にて耶麻・信夫・置賜3郡に跨る。
支峯連出数10里の外に亘り、満山の景象を知者稀なり。
東と東吾妻といひ、中を中吾妻といひ、西と西吾妻という。遠く望めば3山相並びいづれを高しとは知ざれども中吾妻尤も広大なりという。3山の前途に(めぐ)れる。諸峯みな吾妻を総號とす。双び少なき深山なれば路も通せず。ただ茂林豊草の中に猿聲鹿鳴を聞く。極めて幽邃(ゆうすい)の境なりとぞ。
また谷の中に九輪草福壽草あり。
東は信夫郡に接し(耶麻・信夫・置賜3郡に界ふ山を家形山といい、その南の峯を信夫分にて中吾妻と唱ふ。その東に東吾妻あり。みな本郡と峯を界ふ)、北は出羽国置賜郡に界ふ(西の峯を米沢領にて大日嶽といい、その東の山と烏帽子形の吾妻嶽という。共にその峯を界とす)。西吾妻は檜原村に属す。

磐梯山(はんたいやま)

猫魔嶽(ねこまがたけ)

高曽禰山(かうそねやま)

小沼組大塩村の北にあり。
高120丈計。
東北は檜原村に属し西は小田付組入田付村に属す。
麓に数山(めぐ)れどもその上に秀出して山勢雄偉なり。

栗森山(くりもりやま)(黒森山)

木曽組一戸村の東北にあり。
高100丈余。栗樹多きゆえ名くという。
この山の半腹を越えて板沢村にゆく小径あり。
東は五目組山岩尾村に属せり。

高森山(たかもりやま)

吉田組極入村のに西にあり。
高200丈計。
2峯相峙つ。衆山に秀てたれば名く。
この山は奥越の界にて西は蒲原郡鹿瀬組実川村に属し、東は極入邑に属す。
紫萁(せんまひ)を多く産す。

飯豊山(いひてやま)

一戸村の西北にあり。
高450丈。
衆山これに環拱し陸奥・出羽・越後3国に跨り、北は米沢領に隣り西は蒲原郡に属す。
上に五社権現の祠あり。年々8月に至れば多く参詣あり(一戸村の条下を照見るべし)。
西に越後佐渡、北に出羽の山海を臨み、天気晴朗なれば駿河の富士も遥に西南に見えて眼界甚だ広し。封内山多けれども誠に無双の高山なり。されば四時雪有て寒気甚だしく、7、8月の間登山するもの桜花を見、杜鵑(ほととぎす)を聞き、黄葉を踏み、四時の風物一時の佳観に入る。里俗四季の山と称するもさることにや。満山大抵他木なく五葉松のみ奇石怪岩の上に(わだかま)り萬古の色を改めず。
西端の絶頂を大日嶽といい大己貴命を祭れる石窟あり。巉岩(ざんがん)にして躋攀(せいはん)するものまれなり。
また6、7月の間府城の西北に屹立(きつりつ)し積雪皚々(がいがい)として怒るがごとく人の肌骨をして寒からしむ。中にも朝暮の眺望殊に勝れ日暉(にっき)映発(えいはつ)し極めて明媚なり。多くは朝雲に隠れその真面目を見ることまれなり。
この山にミヤマセウビンと称する鳥あり。頭背腹脇共に赤く觜と足と最赤し。大さ鳩のごとくその聲大豆を転ずるに似たりとて里俗菽轉(まめころはし)とも名く。この鳥鳴くときは必ず雨ふるとて雨乞鳥(あまこひとり)ともいう。
また黄連(おうれん)を産す。
熊・羚羊の類多し。

猪苗代湖(いなはしろのこ)

猪苗代の南にあり。
周17里計。
耶麻・安積・会津3郡を浸す。半を限り本郡に属す。
中に島あり翁島という(川西組戸口村の条下に出す)。
相伝て。大同元年(806年)暴に漲れりという。
澄波鏡の如く遠嶂寅(東北東)に聳ゆ。朝夕の変態一ならず実に一方の勝槩なり。中にも東北の湖濱は眺望殊に勝れ、安積郡布引山数里の外に綿延し、景状極めて秀麗なり。
白鳥・雁・鴨の類来り浴す。
鮒魚(ふな)・アメマスを産す。またマルタという魚あり。春夏の際これを漁して多く(ひさ)ぎ出す。鮒魚尤美なり。近江の湖水の産に譲らずとぞ。大網を引きこれをとる。
また春水の時簾立(すたて)とて竹を編み周5尺余の輪とし夜々舟を浮かべ松を燃やし鮒魚と捕ふ。これを「うかり鮒」という。

酸川(すかわ)

檜原村高森山より出大川といい、村の東南にて長井川これに注ぎ、南に流れて吾妻川(あつまかわ)これに注ぎ檜原川となり小野川(おのかわ)中津川(なかつかわ)これに合し、川東組に入り渋谷村の東北にて酸川に合し酸川といい(長瀬川ともいう)、金曲村・小平潟村の間を経て湖水に入る。
沼尻・熱湯の下流を受けて味酸く硫黄の気あり。故にこの水の灌ぐ所米穀の味あしし。
また上流には(ます)岩魚(いはな)(やまへ)杜父魚(かしか)・マルタの類多けれども酸川合してより魚類少し。
大抵西北より東南に流る。広30間計。

日橋川(につはしかわ)

その源は猪苗代湖より出、広40間余。
川西組大寺村より塩川組に入り、塩川村の西にて大塩川これに合し、下遠田村より小荒井組に入り貝沼村の南にて鶴沼川に合す。広100間計となり慶徳組に入り大木村の南にて樒川(しきみかわ)来り注ぎ、山崎村の東にて濁川北より来り注ぎ村西にて鶴沼川南より来り注ぐ。新宮村より木曽組に入り船岡村の西にて一戸川これに合し、舘原村の南にて只見川に合し、水流益さかんにして大谷組に入り西海枝村の端村一竿の辺にては両岸より岩石相つかね広僅か20間計。戸中村より吉田組に入り杉山村の東にて奥川来り注ぎ、西に流して越後国蒲原郡鹿瀬組に入る。
この川に5の小名あり。戸口村の辺を戸口川をいい、大寺村の辺に至り日橋川といい、赤枝村より下を堂島川といい、鶴沼川に合して大川となり、只見川に合してより揚川という。凡てこれを日橋川という。
耶麻・河沼2郡の間を流れ、曲折数回なれども大抵東より西に流る。
封内の諸流みなこれに合す。封内第一の大河にて所謂(いわゆる)会津川なり。会津川をよめる歌古今六怗に
          貫之
心にも あらてわたりし 会津川 憂名を水に うつしつるかな

大塩川(おほしおかわ)

檜原村高曽禰山より出小潮川といい西南に流れて小沼組に入り、大塩村を経て大塩川となる。館村より熊倉組に入り熊倉村よりまた小沼組に入り、上利根川村より塩川組に入り、塩川村の地にて姥堂川(うはたうかわ)に合し、村中をすぎ日橋川に入る。
大抵丑寅(北東)より未申(南西)に流れ、広30間。
(はえ)(やまへ)杜父魚(かしか)の類を産す。

一戸川(いちのとかわ)

木曽組一戸村の西北飯豊山劔峯(けんがみね)より出、木曽組一戸村の西南にて早稲谷川(わせたにかわ)これに注ぎ、藤沢村に至て五枚沢川に合し、木祖村の東にて宮古川をすぎ日橋川に入る。
大抵北より南に流る。広20間余。
岩魚(いはな)(やまへ)を産す。

雄国谷地沼(おくにやちぬま)

猫魔嶽の西北にあり。
山間広平にて雑樹なく多く蒹葭(けんか)を生す。
中に沼あり。広15町四方計。その水深く冬夏涸れることなし。猫魔(ねこま)桂沢(かつらさは)井戸窪(いとくほ)丸山(まるやま)等の諸峯これをめぐり幽陰の地なり。
萬治2年(1659年)小沼組大塩村平左衛門というもの金坑の如く山の中腹を穿ちこの水を引て田地の養水とし雄国新田村を開く。
黄連を産す。谷地黄連という。

水利

今和泉堰(いまいつみせき)

川東組渋谷村の北にて檜原川を引き、川東・川西両組の田地に(そそ)ぎ凡300町余の養水となる。
また上山下堰(うへやましたせき)ともいう。

狐堰(きつねせき)

塩川組赤枝村の西南にて日橋川を引き、塩川組・小沼組数ヶ村の田地に漑ぎ凡140町の養水となる(塩川組金川村の条下に詳なり)。

駒形堰(こまかたせき)

塩川組赤枝村の未申(南西)の方にて日橋川を引き、塩川組諸村の田地に漑ぎ凡141町3段余の養水となる(塩川組三橋村の条下に詳なり)。

八方堰(はつほうせき)

五目組中村の北にて大塩川を引き、五目組・小田付組・小荒井組諸村の田地に漑ぎ凡91町余の養水となる。




飯豊山(いいでさん)について

ジャパンナレッジに飯豊山について記載がありましたので、(サンプル部分を)一部表記方法を変更して引用します。

越後山脈の北部に位置し、標高2105.1m。
西方の御西(おにし)岳(2012.5m)、北西の烏帽子えぼし岳(2017.8m)・北股(きたまた)岳(2024.9m)、南西の大日(だいにち)岳(2128m)、南東の種蒔(たねまき)山(1791m)・地蔵(じぞう)岳(1538.9m)などとともに連峰を形成、山頂には飯豊山神社が祀られる。
飯豊連峰(飯豊山地)は古生層およびこれを貫く花崗岩からなる隆起山地で、山形・新潟・福島の三県にまたがり、山形県下では西置賜郡飯豊町・小国(おぐに)町、米沢市などが山域に含まれる。なお山頂付近は本来山形・新潟の県境に位置するものの、飯豊山神社への参詣路沿いに細長く福島県域が割込んでいる。
山名の「飯」が通じるところから稲作信仰の山として古くから信仰の対象となった。「延喜式」神名帳には陸奥国100座のうちに「飯豊(イヒトヨノ)神社」(賀美郡)、「飯豊比売(イヒトヨヒメノ)神社」(白河郡)、「飯豊(イヒトヨ)和気神社」(安積郡)と飯豊を共有する三座がみえ、また他国には同記の神社はないものの、これらの諸社との関連は明らかではない。永保年間(1081~84)知穎・南海の二上人によって開かれ、以後飯豊山大権現を祀る修験の山として栄えたと伝えるが、白鳳期に智通が、また大同年中(806~810)に空海が開いたとの伝承も残る。別当は古くは会津雀林(すずめばやし)(現福島県大沼郡会津高田町)の法用(ほうよう)寺、次いで会津(いち)()(現同県耶麻郡山都町)の薬師寺が勤め、16世紀には中津川(なかつがわ)岩蔵(がんぞう)寺(現飯豊町岩倉神社)と会津永井野(ながいの)(現会津高田町)の蓮華(れんげ)寺が争ったが、近世には蓮華寺が別当であった。宥明は同寺中興開山とされ、文禄四年(1595)領主蒲生氏郷から社領50石の寄進を受けるなど、当山の整備を進めた。

元禄期(1688~1704)を境に修験色は弱まり、稲作信仰と成人儀礼を中心とする庶民信仰の形態をとるようになり、置賜地方・会津地方では13~15歳で参詣してはじめて若衆組に入ることが許されたという。また稲作信仰では種蒔山のイナゴハラに自然発生したと信じられている水稲オヤマシネに対する信仰が中心となり、たとえば山開きが旧暦8月1日(210日前後)とされるのは、修験道の心身錬成の名残であると同時にオヤマシネの成熟期がこの頃であり、初穂を捧げに参詣したためと考えられている。
登拝口は表参道である会津側の一ノ戸口と弥平四郎(やへいしろう)(現耶麻郡西会津町)、越後側には滝谷(たきだに)口(現新潟県新発田市)、出羽側では長者原(ちようじやはら)口(現小国町)と米沢道ともよばれた中津川の岩倉(いわくら)口(現飯豊町)の五つがある。岩倉口からは(しら)川沿いに岳谷(たけや)大日杉(だいにちすぎ)と登り地蔵岳に出る。地蔵岳から南西に向かい、一ノ戸口からの道と切合(きりあわせ)で合流、尾根伝いに北西に向かい、草履塚(ぞうりづか)御秘所(おひそ)と経て山頂に達する。近世には岩倉口を出立するとまず不動堂があり、この手前で水垢離をとり、岳谷には口留番所があって、岩倉村伊藤家が口留番役を勤めていた。
地蔵岳中腹には御田明神を祀る地蔵堂があり、ここで持参した米をまき、万作・取木・漆木の三種の枝を差込んで田植のまねをするが、「万作とれてうれしい」の語呂合せという。
頂上には護摩堂、宿泊できる石室があり、石室の御堂で手をよく洗い、口をすすいで本殿に参拝した(「村史なかつがわ」など)。

最終更新:2020年09月20日 07:23
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