河沼郡笈川組浜崎村

陸奥国 河沼郡 笈川組 浜崎(はまさき)
大日本地誌大系第33巻 106コマ目

府城の西北に当り行程2里33町。
家居70軒、東西両頬に連なり米沢街道に住す。
北端にて東に折れ塩川橋を隔て耶麻郡塩川組塩川村に連なる。
東西56間・南北4町30間。
北は日橋川に()ひ三方田圃(たんぼ)なり。

東9町7間水谷地新田村の界に至る。その村まで11町50間余。
西5町45間塩川組上下遠田両村の界に至る。上遠田村は戌亥(北西)に当り22町40間余、下遠田村は酉戌(西~西北西の間)に当り23町40間。
南1町48間沼上村の界に至る。その村は午未(南~南南西の間)に当り3町50間。
北は塩川村に隣り橋中を界とす。
また
辰(東南東)の方6町43間高瀬新田村の界に至る。その村まで23町。

小名

大舘野新田(おほたてのしんでん)

本村より寅(東北東)の方10町10間余日橋川の北にあり。
家数2軒、東西16間・南北23間。
四方田畠なり。

端村

古木新田(ふるきしんでん)

本村の東水谷地新田村の境内を隔て13町40間余にあり。
家数7軒、東西1町5間・南北28間。
西は水谷地新田村に続き東南は田圃なり。東西2町36間・南北2町の地面この村に属す。
東は代田組島村に隣り南は高瀬新田村の地に連なり北は塩川組三橋村に界ひ日橋川を限りとす。

山川

日橋川

村北にあり。
塩川組金川村の境内より来り、金川村・水谷地新田村・塩川村の境内を経て西に流れ南に転じ、凡この村の境内35町計流れ沼上村の界に入る。

黒川

粟宮新田村の境内より北に流れ来り渠川東より来り注ぎ、西に流るること3町20間沼上村の界に入る。

渠川

笈川村の境内より来り、西に流るること2町30間黒川に入る。

関梁

塩川橋

村北日橋川に架す(塩川村の条下に詳なり)。

金川橋

端村古木新田の寅卯(東北東~東の間)の方3町余日橋川に架す(金川村の条下に詳なり)。

渠橋

村より9町20間余未申(南西)の方渠川に架す。
長10間・幅1丈。左右に勾欄あり。
米沢街道なり。

郡署

郡役所

村東50間、館跡の中にあり。
軍奉行を置き民事を統制せしむ。
沼上村及び耶麻郡小田付組小田付村・五目組上三宮村・熊倉組熊倉村の代官所これに隷す。

神社

稲荷神社

祭神 稲荷神?
鎮座 不明
村り3町丑寅(北東)の方館跡の東にあり。
鳥居幣殿拝殿あり。

神職 榊奥正

その名を忠重という。
寛政12年(1800年)より当社の神職となる。

寺院

遍照寺

村中にあり。
真言宗山號を金剛山という。
元和5年(1619年)宥栄という僧京師に登り山城国醍醐松橋堯圓に謁し密法の蘊を竭し郷に帰て当寺を創建す。因て松橋無量壽院の末寺なり。
寛永の始加藤成明寺料を寄付せるにより佛殿を造営す。

鐘楼門

2間に1間半。
上に鐘をかく。
径1尺8寸、『寛永二十一年甲申本願大竹助兵衛常光佐藤庄左衛門上野孫左衛門』と彫付けあり(寛永21年:1644年)。

客殿

8間に6間、東向。
本尊大日。

観音堂

境内にあり。

古蹟

館跡

村東50間にあり。
本丸迹、東西50間・南北1町。四方に幅5間余の堀を廻らし、上に高3間計の土居あり。二之丸迹この西に並び南に外郭の跡あり。北は日橋川を引て要害とす。
この地もの何者の築き住せるにか詳ならねども塔寺村八幡宮長帳に、寶徳3年(1451年)猪苗代より浜崎館を打取る、とあればその前の営築と見ゆ(舊事雑考にこの時の事を載て、8月29日白河與小峯共来相謀於和故猪苗代氏退還とあるは長帳の文に拠ると見ゆ)。その後亨徳2年(1453年)典厩(舊事雑考に松本右馬允なるべしとあり)濱崎の館を陥れし時、白川より黒川を援け兵を出し戦い塩川・浜崎の両館を陥るよし長帳に見ゆ。また舊事雑考に蒲生氏郷の臣横山喜内という者塩川の館に居りしが水災に苦しみ、秀行の時蒲生主計という者今の浜崎の旧址に移りしことあれば、この時始て修営を加え城隍の構も旧に増りしにや。
元和中(1615年~1624年)1国1城の制になりしとき(こぼ)つべかりしを、蒲生氏茶屋と名け暫が程残し置きしかば今に至てその形他の館跡に異なり。