この村深山の奥にて四面みな高山なり。小径ありて隣村に通すれども嶮隘にして惟小屋村に出るの外牛馬通せず。
この組の村落北の方、ここに至って窮る。
府城の西北に当り行程10里18町。
家数42軒、東西2町10間・南北6町53間、奥川の両岸に住す。
東は
木曽組宮古村の山に続き、西は数峯を隔て越後国
蒲原郡鹿瀬組実川村の山に連なり、共に界域分ち難し。宮古村は辰(東南東)に当り29町30間余。
南9町計
小屋村の山に界ふ。その村は申(西南西)に当り14町10間余。
北は小名弥平四郎を経て飯豊山に登る径路なり。数峯を隔て
木曽組一戸村の界に至るまで山径凡4里計。その間高山・
幽谷を隔て路最も嶮し。飯豊山参詣の外たやすく登るべからず。
小名
弥平四郎
本村の北1里8町余にあり。
家数19軒、東西50間・南北3町、東は奥川に傍ふ。
木地を挽て産業とす。近頃往々山間に
田圃を闢く。
この村飯豊山に登る径路にて、封内東より来る者は一戸村を過ぎ、西より来る者はこの村を過ぐ(俗に飯豊山の裏街道という)。
毎年8月に至れば里民群集せり(
一戸村の条下を併せ見るべし)。
山川
高森山
村西1里30町にあり(本郡の条下に詳なり)
夏越戸山
村北3里計にあり。
高150丈余。
この後に峙つを疣岩山といい飯豊山の麓なり。
ガシウ峠
小名弥平四郎の東21町30間にあり。
登ること8町30間。
木曽組一戸村にゆく経路なり。
奥川
村中にあり。
源は疣岩山より出て、弥平四郎の東を過ぎ未申(南西)の方に流て倉谷川を過ぎ、村中に至り石谷川来り注ぎまた未申(南西)の方に流れ
小屋村の界に入る。
境内を経ること3里余。広10間計。
倉谷川
源は夏越戸山より出て、辰巳(南東)に流るること2里計、村より15町余丑寅(北東)の方にて奥川に注ぐ。
岩魚・鰥を産す。
石谷川
村中にあり。
源は高森山より出て、東に流るること1里余、村中にて奥川に注ぐ。
沼
村西1里、山奥にあり。
周60間。
清水2
一は村東1町にあり。周7間。
一は村より戌亥(北西)の方6町にあり。周8間。
共に田地の養水とす。
原野
牧場
村北2町、山中にあり。
東西3町・南北1里19町。
土産
紫萁
高森山より出つ。
舞茸
村北の山中より出つ。
神社
稲荷神社
村東山腰にあり。
鳥居あり。村民の持なり。
寺院
金蔵寺
村東山麓にあり。
真言宗光谷山と號す。府下道場小路観音寺の末寺なり。
開基詳ならず。
旧小屋村にあり。寛永3年(1626年)この村に移し観音寺の僧信光という者再興せりという。
本尊大日客殿に安ず。
奥川軌道(トロッコ)と弥生集落
磐越西線の開通に合わせて徳沢から奥川沿いに人力トロッコ列車が敷設されていました。
紹介された記事のがあったので内容を一部引用します。
かつて、弥平四郎集落と徳沢駅間約 20km に「軌道(トロッコ道)」が奥川に沿って敷かれていました。これは、大正3年(1914)の磐越西線全通に合わせて建設が計画されたものです。当時「林区」と呼ばれていた国の機関による建設でした。弥平四郎集落下の角間沢までは大正 7 年(1918)に、極入集落の北で分岐する弥生集落を通る久良谷(倉谷)沢への軌道は昭和 6 年(1931)に開設されています。
トロッコは軌道幅が約 76cm、四輪の上に台を組み、2~3人一組となり人力で動かすものでした。弥平四郎集落からは、木地椀や木炭をほぼ毎日徳沢駅まで運び、夜明け前に出ても帰りは夜になる重労働であったとのことです。
「弥平四郎」の由来
ここで、一歩を進めて「弥四」と云う奇妙な部落名の由来を追求してみよう。渡木地がこの地に定着するようになった次第が更に明瞭になって来る。
『耶麻郡極入分ノ内弥平四郎木地挽共所生居所改長 延宝二年(1668)寅ノ八月六日』
と云う古文書がある。
文書は極入村肝入長兵衛から代官木村忠左衛門に差し出したもので、今で言えば、弥平四郎の木地挽(木地師に非ず木地挽と呼んでいる)の身許証書と云ったものである。
延宝二年に弥平四郎に住んでいた全十四世帯木地挽達の出生地、移動経路、居住年数を調べ上げている。
その改帳の中に『家兵衛』と云う一家がある。
家兵衛→いえのひょうえ→やひょうえ→やへえ→弥平で家兵衛は即ち弥平である。
四郎→しろう→四良→しろ→代で、代は苗代の代である。
だから、弥平四郎とは、即ち家兵衛の田圃の意である。また、別の古文書写本に真ケ沢村矢部家の系図書がある。
これによれば『真ケ沢荘郷頭矢部六兵衛政次寛文三年(1664)大沢木地小屋を弥平四郎に移し、祓川の辺の葦地を開いて米作を始める』とある。
なお、更に、家兵衛の身許調書の中には、『家兵衛は彦右衛門と同様、出生地は猪苗代の現橋木地小屋、六十一年前に大沼郡大芦村木地小屋に移転、同所に二十八年間住み、耶麻郡梨平村分の大沢に移り、同所に二十六年間住み、弥平四郎に移り、延宝二年で丁度七年間同地に住んでいる』と書いてある。
家兵衛、彦右衛門両人は、この移転の顔役だったことから押して、家兵衛の田圃即ち家兵衛代が弥平四郎の名に定着したと言って良い。
彦右衛門家は現在もその家系が続いているが家兵衛家は家系不明である。
参照:西会津歴史物語より
ガシウ峠
弥平四郎の東にある「賀所」という地名が由来と思われます。
県道383号熱塩加納大和西会津線を挟み、概ね北側にあるのが「
大賀所」、南側が「
小賀所」です。
大賀所のさらに東側、県道沿いには
新稲荷峠があり、小賀所の東には
稲荷峠があり、それぞれ西会津と喜多方の境界線上に位置しています。
山神社と稲荷神社
山神社 弥平四郎
祭神 大山祇神
木地挽集落のため大山祇神を祭ったという。例祭は九月十九日。『新編会津』には極入村の項に山神とあって本村より移したとみえる。
稲荷神社 極入
祭神 倉稲魂神・瓊々杵神・大山祇神
良い米に適しないので飯豊にちなみ倉稲魂神を、飯豊山への険路開拓にちなみ右の二神を祀ったという。例祭七月二十七日。
光谷山金蔵寺 極入
真言宗
本尊 大日如来
もと小屋村にあったのを寛永三年(1626)に僧信光が移して再建した。この寺には「極入のお聖天様」として知られる大聖自在歓喜天の御堂がある。
やまいろのちょうらく - 弥生集落
居村浩平氏による個展の案内がありましたので一部引用します。
弥生集落は戦後、1946年に正式な自治区となりましたが、1953年、大日本帝国陸地測量部による地図から国土地理院地図への修正の際に見落とされ、また1968年の修正の際にも確認されず、長い間地図に載っていない「幻の村」となっていました。またこの地区は厳しい豪雪地帯で、他の地方と同様、都市偏重による深刻な過疎化が進む辺地。現在は春から秋の降雪のない時期にのみ3世帯4名の住民が暮らしています。
奥川林道
かつてあった国鉄徳沢駅付近を起点とする通称奧川森林鉄道(4路線総延長31.2km)の幹線。
福島県内最初の森林鉄道。
現在は林道として整備されている。
- 参照 - 関東森林管理局「福島の森林鉄道WEB史料室」より
最終更新:2025年08月24日 19:26