府城の西に当り行程12里。
家数28軒、東西5町11間・南北1町13間。
深山の間に住し東南は前川に臨む。
飯豊・高森等の高山東北に峙ち寒早く暑遅く、双びなき幽僻の地にて本郡東北の村落ここに窮る。
東2里計陸奥国
耶麻郡吉田組極入村の山に界ふ。
西27町40間
麦生野村と入逢の山界に至る。その村は申(西南西)に当り3里14町余。
巳(南南東)の方22町8間
馬取村に界ひ萬治峠を限りとす。その村は未(南南西)に当り2里11町30間余。
北4里計
下條組滝谷村の山に界ふ。
山川
飯豊山
村の東北3里計にあり。
高450丈。陸奥・出羽・越後3国に跨り、双びなき高山なり。
頂上に飯豊権現の祠あり(陸奥国
耶麻郡木曽組一戸村の条下に詳なり)。
山勢西に連なり、漸々に高く
最高頂を大日嶽という。
岩山にて草木なし。8分目より下つかたは五葉松・白ツカ
蕃茂せり。
四時雪消せず、熊・
羚羊・狼多し。
北は
滝谷村と峯を界ふ。
嶺上の岩窟に御西権現を奉る。深山にて参詣するものなく、冬に至て
凍雪を踏む狩人の
往通うのみなり。
またこの山中に10間より20間四方計の小沼48あり。魚類を産せずとぞ。凡て
八沢沼と唱ふ。
烏帽子嶽
村より戌亥(北西)の方1里18町計にあり。
高2里計。これも大日嶽の南に続たる高山なり。
北は
滝谷村、西は
日出谷村と峯を界ふ。
高森山
村より辰巳(南東)の方1里計にあり。
頂まで1里計。
東南は
極入村の山に続き峯を限りとす。
陸奥・越後の界なり。
萬治峠
村より巳(南南東)の方8町計にあり。
数十折して頂上に至る。
凡14町余。道極めて
嶮なり。
馬取村及び
耶麻郡に出る経路なり。
前川
村南にあり。
水源は飯豊山より出、山中を屈曲して西に流るること9里計、所々の渓流来り注ぎ
日出谷・
麦生野両村の界に入る。
広4間計。
流れ急に、石高き荒川なり。
後川
村より亥(北北西)の方20町計にあり。
源を大日嶽と烏帽子嶽に発し、山間を西に流るること8里計、村西20町計に至り前川に合す。これより下流を実川という。
広3間計。
大滝
村東15町、前川にあり。
高2丈計。
関梁
橋2
一は村南1町計、前川に架す。長13間・幅7尺、勾欄あり。前橋という。
一は村西20町計、前川と後川と合する所にあり。長9間・幅5尺。出合橋と名く。
共に隣村にゆく道なり。
神社
山神社
村北にあり。
鳥居あり。菱潟村星丹下これを司る。
寺院
山渓寺
村北にあり。
岩屋山と號す。
永正6年(1509年)
耶麻郡五目組熱塩村示現寺7世の僧桃渓が開基なり。
もと五目組水沢村にあり。その後院宇破壊せり。
寛文元年(1661年)志元という僧再興す。
享保2年(1717年)この村に移る。
示現寺の末山曹洞宗なり。
弥陀を本尊とし客殿に安ず
古蹟
長者屋鋪趾
村北20町計、山入に小野原という所あり。後川の東畔にて東西4町・南北10町計、山中まれなる平地なり。今菜圃を闢く。
その西偏1町計の間、地の高低に従い宅趾とおぼしき所あり。隍の趾僅かに遺れり。
この中に石間より湧出する清水あり。甚だ清冽なり。土人長者清水と名く。近頃まで往々にこの水を引し石樋遺りしとぞ。今は埋れてその形なく草木繁茂せり。
この所、四面に青山連なり人煙遠く中にひらけし平地なれば、古正しく世を忍べる人の住家ありしと見ゆ。時々陶器のかけたるを得ることありという。
この村の農民の家に日光山縁起というものを蔵む。その文、提要の下に付す。その趣と土人の口碑とに拠るに、昔いつの頃にかこの所に朝日長者という富豪あり。その頃在宇中将といえる公卿田猟に淫せるにより罪を得てここに来り、長者が娘朝日媛に契り1人の男子を生り。その子5歳のとき中将赦にあいて京師に帰る。彼子成長の後父の跡を追て京師に上り朝に事え、昇進して官黄門に至り馬頭中納言と號す。後、故ありてこの所に来り住す。その妾一子を誕す。容貌甚だ醜し。小野猿丸大夫と称す。人となり射業に長じ田猟を好む。一日猟して山深くわけ入りしに、日光権現あらわれ給い「我上野の赤城明神と湖界を争て戦闘やむことなし。汝これを援けよ」と。猿丸その命を奉じて功ありしかば、権現喜び給い「汝をもて神主とす。我子中納言と共に山麓にありて民人を護るべし」と宣う。今の男體権現は中将、女體権現は朝日媛、太郎明神は中納言の現せる神なりとぞ。神怪のことにて信ずるに足らざれども、古く伝えし事なればそのままに注しぬ。
この所より亥(北北西)の方1里計山上に筆着松という松樹あり。西の方に注山あり。頂上まで10町計、猿丸ここに在しときに詠せしとて
小野の原 見渡しみれば 曽々木山 嵐烈き 筆つけの松
という歌土人の口碑に伝う。(
舊事雑考には、土人の説によりこの猿丸を以て和歌をよくせし人とし、鴨長明が方丈記を引て後近江国田上に終れるならん、とあり)
余談。
筆着松と注山はどこにあるか分かりませんが、北西の方4.4㎞の所に
筆塚山ならあります。なお、在宇中将とは有宇中将の事らしいです。
追記。
とんりすんがりさんより情報をいただきました。
実川集落は平成14年に最後まで住んでいた五十嵐家の方が、高齢のために雪下ろしが出来なくなり、既に文化財指定されていた家屋を全て旧鹿瀬町に寄付して五泉市に移住し廃村になってしまったそうです(それ以前から厳冬期は五泉で過ごしていたようです)。
小倉百人一首に載る猿丸大夫の「奥山に紅葉踏み分け鳴く鹿の~」の歌は実川で詠まれたという伝説があり文人の琴線に触れる地域だったようで、近代以降も河童絵で有名な小川芋銭や安倍能成といった文人が訪れ五十嵐家に泊まったそうです。
猿丸大夫の歌とは『奥山に紅葉踏みわけ鳴く鹿の 声きく時ぞ秋は悲しき』(猿丸太夫(5番)『古今集』秋上・215。参考:
ちょっと差がつく百人一首講座)。
山渓寺跡(廃寺)には五十嵐家の方が建立した芋銭の句碑があるそうですが正確な場所はまだ調べられていません。
実川集落は平成14年より廃村となったそうです。
管理が鹿瀬町へ移ったとはいえ、山奥なのでそれほど手入れされる事もないでしょう(老朽化した所の補修くらい?)。
現在森の中に消え見つかっていない旧趾は、発見される事無く朽ちて行くのではないでしょうか。
猿丸大夫については、柳田国男氏の「神を助けた話」に氏が調査した内容が書かれているようですが、原本は入手困難でネット上では著作権の関係でまだ読めません。
最終更新:2020年10月16日 20:37