蒲原郡鹿瀬組鹿瀬村

越後国 蒲原郡 鹿瀬組 鹿瀬(かのせ)
大日本地誌大系第34巻 33コマ目

府城の西に当り行程14里。
東西2区に住し、その間2町を隔つ。
東を上村(かみむら)という。家数55軒、東西4町30間・南北2町13間。
西を下村(しもむら)という。家数42軒、東西3町36間・南北2町5間。
共に山中に住し北は揚川に傍ひ四方少しく田圃(たんぼ)あり。

上村に官より令せらるる掟条目の制札あり。

東1里10町日出谷村の界に至る。その村まで1里25町。
西11町津川町に界ひ松坂峠を限りとす。津川町まで23町30間。
辰巳(南東)の方1里26町海道組倉平村の山界に至る。その村まで2里12町。
北20町向鹿瀬村の界に至る。その村まで24町。

小名

角神(つのかみ)

上村より丑寅(北東)の方1里3町にあり。
家居1軒。
重山の間に住し南は揚川に臨む。

端村

深戸(ふかと)

上村の東24町にあり。
家数3軒、東西1町20間・南北2町13間。
山間に住し西北は揚川に傍ふ。

中岩沢(なかいはさは)

深戸の北8町40間余にあり。
家数3軒、東西20間・南北40間。
山麓に倚り揚川に臨み、境地幽邃(ゆうすい)なり。

山川

狐戻山(きつねもとしやま)

下村の西11町にあり。
頂上まで3町計。
岩山なり。
金上遠江守盛備が城趾あり(津川町の条下に詳なり。併せ見るべし)。

赤崎山(あかさきやま)

上村の北8町計にあり。
頂上まで10町、周1里計。
紅葉多きゆえ名く。
向鹿瀬村と入逢なり。

南塒山(みなみとややま)

端村深戸より辰巳(南東)の方10町計にあり。
北に並べるを北塒山という。
共に頂上まで14町計。
昔この山にて鷹を(こう)せしという。

銅山4

一は小名角神より丑寅(北東)の方1里余にあり。草倉山(くさくらやま)という。小屋1軒。
一は角神より寅(東北東)の方10町余大川端(おほかははた)という所にあり。小屋2軒。
一は角神より寅(東北東)の方15町計、向鹿瀬村と入逢の地品谷(しながたに)という所にあり。小屋1軒
一は角神より33町計辰(東南東)の方、黒崎山(くろさきやま)にあり。小屋1軒。
元文4年(1739年)より銅を採る。
その後多少あれども出ること断す。
寛政2年(1790年)より役人を置きその事を司らしむ。
近頃は銅の出ること最少し。

揚川(あかのかわ)

村北1町計にあり。
日出谷村の境内より来り、西に流れ南に転じまた西に折れ、向鹿瀬村と入逢の地を過ぎ津川町の界に入る。
境内を経ること凡2里17町計。
広2町。
小舟を設け向鹿瀬村に往来す。

水利

堤4

一は村東1里余にあり。周500間。寛政2年(1790年)に築く。
一は村の西南8町計にあり。周90間。
一は村東にあり。周210間。
一は端村深戸の東5町計山中にあり。周76間。

神社

三嶋神社

祭神 三嶋神?
相殿 伊勢宮
   稲荷神 2座
   諏訪神
   山神  2座
   日光神
   白山神
   七所神
   若宮八幡
   帝釈神
勧請 不明
上村にあり。
大江何某というもの大和国よりこの地に来り勧請すという。年代詳ならず。
神像2軀あり。一は長1尺2寸、一は長8寸2分。みな古物なり。
鳥居拝殿あり。

神職 大江山城

先祖を小林甚大輔貞勝という。いつの頃にか当社の神職となる。5世の孫安房貞直というもの故ありて大江氏に改むという。今の山城貞昌は貞直が4世の孫なり。

稲荷神社

祭神 稲荷神
相殿 帝釈神 地主神なり
   風神
   熊野宮
鎮座 不明
端村深戸の東、山上にあり。
鳥居拝殿あり。大江山城これを司る。

寺院

多寶寺

上村にあり。
妙法山と號す。公領本郡草水村観音寺の末山曹洞宗なり。
縁起に、安貞2年(1228年)齊家の僧寅身というもの、陸奥国河沼郡柳津村虚空蔵に詣んとて鎌倉縁覚寺より(舊事雑考に縁覚寺は圓覚寺の訛()、圓覚寺は弘安5年(1282年)の草創にて安貞2年よりは50余年の後なればいぶかし(・・・・)とあり)来り、遂に上條組石畠村に住し、その後ここに移り8町四方の地面を求め(古文書の写あり。下に載す)当寺を創立し、春日作の釈迦弥陀及び空海作の大日を本尊とす。大日の像長1尺5寸今に存す。その頃は大洞庵・寶昌院・梅秀庵とて塔頭3ありて巨刹なりしとぞ。
寅身5世の後無住となり什物・旧記多く紛失し、塔頭もこの時に廃毀(はいき)すという。
寛正2年(1461年)観音寺の僧可山、旧院の廃せるを傷み佛宇を再興しここに住せり。因て可山を中興とす。
天正19年(1591年)本村伊勢守秀俊流落してここに来り暫く当寺に寓居(ぐうきょ)し、後ゆかりについて蒲生氏に寄食(きしょく)せし時旧好を忘れず当寺の古刹なることを称しければ、氏郷寺産70石を寄付せしとぞ。
上杉氏のときこれを失う。
文化元年(1804年)火災にかかり再建いまだならず。

鐘楼

境内の入口にあり。
鐘、径2尺3寸。享保13年(1728年)住持覚峯が鑄る所なり。銘あれども煩わしければ載せず。

観音堂

境内にあり。
旧村中にあり。何の頃にかここに移す。

日光神社

観音堂の北にあり。
当寺草創のとき寅身が勧請という。
 多寶寺之文書之事
開山之事 かまくら之縁覺寺之内に多寶院と申塔主坊主折節柳津へ佛詣致 それより小河へ下 石畠に一両年滞留仕 其後又かのせみ寺澤と申に二年逗留被申候か あまりに寺澤之事せば地に御座候間 旦那ニ屋敷をこい寺を立被申候 其間東西之屋敷五百貫文之禮文を以請取申候 若又旦那六け敷事を申上候はゝ此状をさきとして五貫文之代を旦那可返と申候 其後野原を寄進に被付候 為其禮とは一貫五百文しきせんを致申候 しせん是も相違申候はゞ 彼諚を先と致理可申候 又さかい之事 もんぜんの後よりせき澤かしらの道を切かみわ一之せきの上のくつれよりにしは 寺さかみのなかそねをとうみあてに仕候 又北は山神之前(桁か)之ついちよりにしはつゝみのかしら之一本うつぎさかいに御座候 若又うつきうせ候はゞ 田之かしらをさかいに御座候 とうみニだうし之かしら之こはげに御座候者 東はせき澤かしら之道かぎり 南野原は寺ふんに御座候 きたに田中内御座候 返々於後日ことわり申候者 此状をさきとして御理可有之候 為後日之手形を遺候 仍如件
 于時安貞二暦丁亥三月廿日
     多寶寺 田中
          神九郎(花押)
按ずるに、安貞2年の歳次は戊子なり。誤りなるべし。舊事雑考には安貞元年(1227年)丁亥の事とす。

安養寺

端村深戸の東、山麓にあり。
芭蕉山と號す。
開基の年代しれず。
天正元年(1573年)津川町玉泉寺會下淳快という僧来て再興す。
玉泉寺の末山、真言宗なり。
本尊聖観音客殿に安ず。

観音堂

上村にあり。
草建の年代を伝えず。
村民の持なり。

毘沙門々

下村にあり。
建立の初しれず。
村民の持なり。

墳墓

古塚

下村の南1町計、菜圃(さいほ)の中に高3尺計の塚あり。
村老の説に、新宮次郎盛俊が墓なりという。
案ずるに、塔寺村八幡宮長帳永亨5年(1433年)の記に、新宮氏小川荘に打入り討死せるよりみゆれば、土人の伝える所謂れなきにあらず。
また下村の西6町計、菜圃の中に高1間計の塚9相並べり。側に古松樹1株あり。
土人いう、この所に吉見次郎某という者住し、後に津川町御小屋館に移る。この塚みな吉見氏先祖の墓なりと。
また舊事雑考享禄3年(1530年)の記に、鹿瀬村に住せる吉見忠親というもの津川町神善光寺の領5ヶ村を押領せしよし見ゆれば、この村に吉見氏の住せしとは見えたり(津川町の条下を併せ見るべし)。

旧家

大江彌惣左衛門

この組の郷頭なり。先祖を弾正某という。津川町狐戻の城主金上盛備に属し、小川荘政所というを勤めしとぞ。
蒲生氏の時大肝煎という。
その後いつの頃にか小川荘の諸組を分ちしとき組頭という。
加藤氏の時より郷頭と改む。
寛永20年(1643年)彌惣左衛門某、家資を出して水利を開き許多(あまた)の田畝を墾発せり。
今の弥惣左衛門が9世の祖なりという。


最終更新:2020年10月09日 22:34