府城の西に当り行程14里32町。
家数32軒、東西2町5間・南北1町7間、山中に住す。
東は川に近く三方に田圃あり。
東5町10間・南4町、共に
明谷沢村の界に至る。その村は巳(南南東)に当り5町20間。
西11町15間
石畠村の界に至る。その村は戌(西北西)に当り22町10間余。
北16町計
小出村の山に界ふ。
また
申酉(西南西~西の間)の方12町
小山村の界に至る。その村まで23町40間。
山川
柴倉川
村東5町40間計にあり。
明谷沢村の境内より来り、黒谷川を受け粟瀬川となり、西北に流るること18町計
石畠村の界に入る。
黒谷川
村東5町余にあり。
明谷沢村の境内より来り、丑寅(北東)の方に流るること2町計柴倉川に注ぐ。
神社
白山神社
祭神 |
白山神? |
相殿 |
熊野宮 |
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若宮八幡 |
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伊豆神 |
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戸隠神 |
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鬼渡神 |
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蔵王神 |
鎮座 |
不明 |
村より戌亥(北西)の方5町10間計にあり。
鳥居あり。村民の持なり。
相殿 熊野宮・若宮八幡
この2社、昔は神田許多ありて社頭の結構もやや大なりしに、蒲生氏の時神田を没収すという。
神職 渡部宮内
先祖を三大夫という。いつの頃にか当社の神職となる。
その後延寶中(1673年~1681年)に筑後盛次というものあり。今の宮内が6世の祖なり。
寺院
西方寺
村西にあり。
貞治5年(1366年)鎌倉より渡部左近将軍監盛藤というもの、この地に来り村を粟瀬と名く。
盛藤死後その妻1宇の閑室を構え、鎌倉より西蓮という沙門を招き盛藤が冥福を祈る。この時西蓮弥陀の掛幅をもち来り本尊とす。今なお存せり。
(村西菜圃の中に盛藤が墓なりとて石塔1基あり。近頃建しものという)
文禄の頃(1593年~1596年)火災に罹り堂舎燒亡す。その後いつの頃にか再興し、津川町新善光寺の末山浄土宗となる。唐繪山と號す。
本尊弥陀客殿に安ず。
余談。
(旧上川村)三宝分の3社についての記載を
安用村に移しました。
最終更新:2020年10月28日 21:02