蒲原郡上條組粟瀬村

越後国 蒲原郡 上條組 粟瀬(あはせ)
大日本地誌大系第34巻 53コマ目

府城の西に当り行程14里32町。
家数32軒、東西2町5間・南北1町7間、山中に住す。
東は川に近く三方に田圃(たんぼ)あり。

東5町10間・南4町、共に明谷沢村の界に至る。その村は巳(南南東)に当り5町20間。
西11町15間石畠村の界に至る。その村は戌(西北西)に当り22町10間余。
北16町計小出村の山に界ふ。
また
申酉(西南西~西の間)の方12町小山村の界に至る。その村まで23町40間。

山川

柴倉川

村東5町40間計にあり。
明谷沢村の境内より来り、黒谷川を受け粟瀬川となり、西北に流るること18町計石畠村の界に入る。

黒谷川

村東5町余にあり。
明谷沢村の境内より来り、丑寅(北東)の方に流るること2町計柴倉川に注ぐ。

神社

白山神社

祭神 白山神?
相殿 熊野宮
   若宮八幡
   伊豆神
   戸隠神
   鬼渡神
   蔵王神
鎮座 不明
村より戌亥(北西)の方5町10間計にあり。
鳥居あり。村民の持なり。

相殿 熊野宮・若宮八幡

この2社、昔は神田許多(あまた)ありて社頭の結構もやや大なりしに、蒲生氏の時神田を没収すという。

神職 渡部宮内

先祖を三大夫という。いつの頃にか当社の神職となる。
その後延寶中(1673年~1681年)に筑後盛次というものあり。今の宮内が6世の祖なり。

寺院

西方寺

村西にあり。
貞治5年(1366年)鎌倉より渡部左近将軍監盛藤というもの、この地に来り村を粟瀬と名く。
盛藤死後その妻1宇の閑室(かんしつ)を構え、鎌倉より西蓮という沙門を招き盛藤が冥福を祈る。この時西蓮弥陀の掛幅(かけふく)をもち来り本尊とす。今なお存せり。
(村西菜圃(さいほ)の中に盛藤が墓なりとて石塔1基あり。近頃建しものという)
文禄の頃(1593年~1596年)火災に罹り堂舎燒亡す。その後いつの頃にか再興し、津川町新善光寺の末山浄土宗となる。唐繪山と號す。
本尊弥陀客殿に安ず。





余談。
(旧上川村)三宝分の3社についての記載を安用村に移しました。
最終更新:2020年10月28日 21:02