蒲原郡上條組安用村

越後国 蒲原郡 上條組 安用(あよう)
大日本地誌大系第34巻 54コマ目

府城の西に当り行程15里。
家数12軒、東西54間・南北2町18間、山間に住す。

東4町8間押手村の界に至る。その村まで9町40間余。
西7町26間黒谷村の界に至る。その村まで10町40間余。
南は山深くして界域分明ならず。
亥(北北西)の方2町55間明谷沢村の界に至る。その村まで15町50間余。
また
丑寅(北東)の方11町8間東山村の界に至る。その村まで13町50間余。

山川

御前(こせんが)ゆう(御前洞)

村より辰巳(南東)の方3里計にあり。
高20丈計の岩山にて頂上に石洞2あり。洞口共に縦8尺・横5間余・深7間計。
奇境(ききょう)なり。
土人相伝て、余五将軍維茂の夫人住せし所なりという。
方言に「洞」を「ゆう」という。因て斯く名くとぞ。
この所より西に続ける山と井戸小屋といい、ここに清水あり。彼婦人の用いし水といい伝う。

柴倉川

村北にあり。
押手村の境内より来り、所々の渓流を受け西北に流るること14町計明谷沢村の界に入る。

水利

村より巳(南南東)の方20町にあり。
周70間。
元禄7年(1694年)に築く。

神社

山神社

祭神 山神
鎮座 不明
村西2町計、山麓にあり。
鳥居あり。村民の持なり。

山神社

祭神 山神
鎮座 不明
村南にあり。
鳥居あり。村民の持なり。

古蹟

陣場平(ちんはやたひら)

村より辰(東南東)の方4町計にあり。
30間四方計の平なり。前は柴倉川に臨み、後ろは才神(さいのかみ)という山に倚れり。この山にも5間四方計の平地12ヶ所あり。時として兵器の朽損(きゅうそん)したるを得ることありとぞ。
土人相伝て、古戦場なりという。いつの頃何人の戦争ありし所にか詳ならず。

旧家

渡部市郎右衛門

先祖は渡部左近将監盛遠(粟瀬村西方寺の縁起には盛藤に作る)とて貞治5年(1366年)鎌倉よりここに来住(きし)すといい伝えれども世系詳ならず。
代々肝煎を勤む。
家に古き馬具及び茶釜を持伝う。茶釜は享和2年(1802年)請て府に納む。
また元和中(1615年~1624年)蒲生氏よりあたえし文書の写1通あり。その文左に載す。
小川庄之内明谷澤村・粟瀬村・安用村三ヶ村分 山之内ニ山之儀小手茂村と惣論ニ付而双方目安并口上数度遂證明候所 元来三ヶ村山ニ無紛由双方申候 先年中納言様誤検地之砌り小手茂村近邊ニ有之由 右三ヶ村田地小手茂村へ相付候 其刻彼内山共ニ田地ニ相添小手茂村え被付候由 小手茂村ゟ申候へ共 申分證據無之候 不謂義を申と聞居候間向後小手茂村之者彼内山え不入立入之由 小手茂村へ申出候 但内山のふもと柴山へはゐ中代ニは小手茂村ゟ酒手を出し立入候へ共 上世成候てゟ無酒て入来候由候間 自今已後無酒手可入候間可成證據候者也 仍判状如件
 元和貳年七月廿五日      町野長門守
                稲田数馬助
  明谷澤村 粟瀬村 安用村 肝煎百姓中





余談。
(旧上川村)三宝分の神社は3社。
  • 白山神社 - 粟瀬の白山神社
  • 山神社 - 相高島
  • 山神社 - 居平
神社明細帳を見ると、居平の山神社は安用部落の産土神とあります。

※越後佐渡デジタルライブラリー『神社明細帳 阿賀町』より

粟瀬の山神社(怪しい所はありますが…)と安用の山神社1社は明治に入るまでに無くなってしまったようです。
最終更新:2020年10月28日 21:26