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郭外 > 上町 > 馬場町

陸奥国 若松 郭外 上町 馬場(ばば)
大日本地誌大系第30巻 134コマ目
会津若松史 第2巻より

馬場町口の郭門を出て北に行く通なり。
長5町30間余・幅5軒、家数114軒。

葦名氏のころは今の郭内本一之丁の地に犬追物の馬場あり(本一之丁の条下に詳なり)。
この町件の馬場に続ける(ゆえ)名とすという。
文禄元年(1593年)蒲生氏城郭営築のときここに移せり。この地もそのかみ馬場ありしにや。一之丁二之丁との間の(みぞ)に古き(くい)数本埋れて残れり。往時馬を繋し杙なりという。
この町の内五之町より北の方を馬場名小屋町という。

寺院

観音堂

この町の西頬にあり。
承應の頃(1652年~1655年)坂内宗澤とて豪富の者あり。同3年(1654年)に請て己が宅地を毀ちこの堂を建立す。
堅三日町修験養壽院これを司る。

旧家

坂内孫右衛門

この町の検断なり。
先祖は安倍大和守實信とて駿州*1安倍郡を領し足利将軍義輝卿に仕て京師に伺候(しこう)せり。
永禄8年(1565年)5月19日松永弾正久秀義輝卿を弑せし時、實信その難に(したが)て忠死せり。
實信四子あり。長男を助左衛門實乗といい、本領を失て22歳のとき会津に来り葦名盛氏に請てこの地に住す。二男は安倍迦賀、三男は安倍掃部とて甲斐の武田家に仕ふ。四男は安倍善九郎とて参河*2に参て奉仕せり。
寶乗盛氏の命により氏を坂内と改め長くこの地の人となりき。蒲生氏城郭修築の時この所に宅地を与て町年寄とす。
子孫代々豪富にして領主加藤氏も(しばしば)彼が亭に宴せし事あり。その時の饌羞の次第を書せしもの今にあり。

寶物

桃核 1箇
後藤但馬守祐乗が作にて船乗の千匹猿を彫れり(略)
綸旨 1通
其文如左
後藤彦兵衛男光清申諸公事免除事被聞食訖任武家下知之旨不可有相違之由可令下知給者依天氣上啓如件
  元亀三年四月三日
             左中辯(花押)
   謹上右大辯宰相殿
※元亀三年:1572年


外部リンク等

最終更新:2026年01月09日 20:57
添付ファイル

*1 駿河国。現在の静岡県

*2 三河国。現在の愛知県の一部