府城の南に当り行程11里17町。
家数10軒、東西10間・南北1町余。
東は山に倚り、西は川に傍ふ。
東3町計
田島村の山界に至る。その村は丑寅(北東)に当り5町。
西4町
永田村の界に至る。その村まで14町余。
南5町余
本郡河島組中荒井村の界に至る。その村まで18町。
北1町
丹藤村の界に至る。その村は丑(北北東)に当り12町。
山川
荒貝川
村西にあり。
中荒井村の境内より来り、北に流ること2町余、
丹藤村の界に入る。
広30間計。
水利
田島堰
外部リンク等
村名について
幕末(1868年)まで、南山御蔵入領・新町村
明治8年(1875年)、新町村が田島村へ合併
四方山話
田島村は江戸初期に「町」と称した事があるが、元禄(1688年)~明治(1868)までは「村」であった。
下郷町中妻の観音堂の解体修理中に落書が見つかる。天和2年(1682年)に行った屋根葺替職人田嶋町作兵ヱ、同村五右ヱ門、同村久兵ヱの3人の名前があり、内容は解体係官が田島町の「町」に不審を持ち「村」誤りでないかと云っていた、続いて「同村」と「村」が出てくる所からも「町」はあやしい、というもの。
どうやら当時正式には「村」が正しく、長沼氏居城の頃城下町としての「町」を称した名残である、と話したところ係官は納得したと。
新町の鎮守さま「日岡稲荷大明神」は建物としてはお粗末で、建物(2間半×4間)の内を三分の一の所で区切って後を本殿、前を拝殿としておくだけである。
然しここに献納されてある俳句額は立派で、当時の田島町近在の俳人(当時は書、画漢詩等にも巧みで、村の上流層~名主・郷頭・商人・医師等~で占めていた)が夫々自信がある作一句づつを並べ、之を「香水」が「藤に雀」の絵を添え「純斉」が清書して献納したものである。
(略)
田島堰について
田島堰は新町より京屋裏の切通しまでは中世末(江戸時代の前、1603年あたり)にできていたと推定されているが、そこからは出町ちに下り大乗院へ来て、更に後町薬師寺と流れていた。之を今のように切通しより上中町まで堰をのばし、町の中央から東と西に分ける大工事を行ったのは、田島宿指定後十年位の宮田代官の頃であった。しかし旧水路は後々まで出町道筋に沿って流れており之が埋められたのは明治の新道開通の時新道筋へつけ替えの為のようである。(38年4月)
熊野免について
古来からの言い伝えというのは時によるととんでもない誤りもあるが、又貴重な歴史の1こまである場合もあって、その何れであるか検討をせぬうちは軽々しく否定も肯定も出来ぬものである。
新町のお年寄りの方々は知って居られようが、新町に残る「くまのめえー」に就いて調べた時、新町の歴史を物語る一語であることがわかり感慨を催したものであった。
「くまのめえー」とは現在新町と鎌倉崎との間にある田圃のことで、<ここはもと熊野神社と深い関係のある田だったので田のこやしには下肥や堆肥を全然使わず刈敷(かっちき)だけで耕作していたものである>というのである。熊野神社とはいま宮本にある熊野神社のことで、もとは新町にあったとも言うのである。
その話を聞いたのは郷土史研究が始まった頃なので吾々は半信半疑であった。
ところが宮本田出宇賀神社宮司宅と新町村のもと名主星庄八氏宅よりこの内容を裏付ける文書があらわれ、言い伝えの重要さを改めて知らされたのであった。
その文書とは次の如きものであった。
「新町に立ち候熊野権現の祠、今の度び願の上、私持前の田出宇賀神の御脇へ引移し候、新町に居り候熊野の神子千一義引き申し候、私持前の社中へ引き候間御尋ねも御座候に付き、別段の事もこれ無しと申し上げ候、私持前の内にて別け遣し候、宮本の社中へ移り申し候千一も参り候、熊野免(筆者傍点)と申しして新町に田も御座候と申し上げ候、後々のため留め申し候」
文禄二□□月 室井左近(花押)
文禄二年(1593)は今から約三百七十年前、秀吉が天下を治め太閤検地を行なった時である。文書の意は「此の度び新町に建っていた熊野神社はその司掌者である神子の千一ともども田出宇賀神社の境内に移った。新町には熊野免と言われている田もあります」というのである。
之より百年後の正徳三年(1713)(約二百七十年前)の新町村差出帳には、新町村へ他村から入って耕作している調上げの欄に「高六石一斗 本田の内、田嶋村若狭守」とある。若狭守は神子千一の子孫で宮本の下社家渡辺家である。つまり前述の「くまのめえー」は「熊野免」のことであり、江戸時代を通じて熊野神社の所有田であった。又一部は神饌田として清浄な耕作法をとっていたことがわかったのである。熊野免の「免」は「免地」で太閤検地の時、維持すべき社寺の所有田を年貢対象となる検地を免除し、社寺の維持をはかった時の名称である。之が「熊野めえー」となって言い伝えられたものであった。
此の事は熊野神社の由来を考察する時大切な一項を提供するものであるが、紙面の都合で今は割愛せねばならない。
新町には今、日岡稲荷神社と電電神社の二社があるが、中世末には此の他に専用の司掌者も居る熊野神社もあった。
ということは、中世長沼氏の栄えた頃の新町は可成の力を持った「町」であったことを裏付けるものである。ただ地理的条件を考えるとその大きさにも限度があろうが、近世初期に「新町村」として独立した所以のものは、ひとえに中世に於ける勢力に依ると考えられるのである。
「くまのめえー」は熊野神社の由来にも、新町の歴史にもかかわる鍵を持つ語だったのである。
(38年10月)
最終更新:2026年06月19日 23:11