会津郡田島組田島村

陸奥国 会津郡 田島組 田島(たしま)
大日本地誌大系第31巻 101コマ目


府城の南に当り行程10里12町余。
家数222軒。長20町余・幅8間。
両頬に住し、南は山に倚り、北は大川に近し。

下野街道駅所にて、村中に官より令せらるる掟条目の制札あり。
楢原組楢原村駅より1里34町、松川組塩生村駅よりも2里25町にてここに継ぎ、ここより1里16町本郡河島組河島村駅に継ぐ。
村東に一里塚あり。

東29町30間長野村の界に至る。その村まで1里4町。
西は村際にて丹藤村に界ふ。
南は新町村及び河島組中荒井村の山に連なり界域分ちがたし。新町村は未申(南西)に当り13町20間。
北6町30間丹藤村の界に至る。その村まで9町30間。
また、辰巳(南東)の方24町水無村の界に至る。その村まで1里。

この村山中に住すれども地面開けて水田多し。
毎月6度の市日あり、近村より来り諸品を交易す。


端村

宮本(みやのもと)

本村の北3町にあり。
家数9軒、東西16間・南北30間。
四方田圃(たんぼ)なり。

折橋(おりはし)

宮本の東4町余にあり。
家数20軒、東西2町・南北8町。
北は大川に傍ひ三方田圃(たんぼ)なり。

古寺(ふるてら)

本村より辰巳(南東)の方8町にあり。
家数4軒、東西1町・南北20間。
南は山に倚り、北に田圃(たんぼ)あり。

櫃島(ひつがしま)

本村より丑寅(北東)の方2町にあり。
家居1軒。

山川

鴫山(しぎやま)

村南4町にあり。
登ること3町余
9折最(けわ)しく満山木立深く、西南は巉岩(ざんがん)高く(そばだ)てり。
(けがれ)ある者この山に入るときは必ず山鬼の祟ありて、或は上る人を(なげう)ち、或は風雨(にわか)に起こると云う。

大川(おほかわ)

村より子丑(北~北北東の間)の方9町にあり。
丹藤村の境内より来り東に流るること30町、長野村の界に入る。
広40間計。

水無川(みつなしかわ)

村東10町にあり。
水無村の境内より来り、北に流るること20町、大川に入る。

清水

鴫山の半腹にあり。
1間四方最清冽(せいれつ)なり。
旱歳にもかれずと云う。

水利

田島堰

新町村の方より来り、田地の養水とし、下流大川に注ぐ。

郡署

陣屋

村中にあり。
役人を置て本組及び小出組・弥五島組・松川組・楢原組・高野組・河島組・熨斗戸組・古寺組・和泉田組・黒谷組・大塩組・大沼郡滝谷組・野尻組・大谷組・大石組・永井野組・冑組・東尾岐組・大塩組・下野国塩屋郡河島組を統制せしむ。

神社

西宮神社

祭神 蛭兒神
鎮座 不明
村西にあり。
鳥居拝殿あり。

神職 塚本左近

先祖を八郎一光という。
何の頃にか当社の神職となる。
慶長の頃(1596年~1615年)文十郎保光という者あり。
今の左近光安は保光が10世の孫なりとぞ。

田出宇賀神社

祭神 倉稲魂命
鎮座
端村宮本にあり。
いつの頃にか田畝の中より出現し給ひし故、名けしとぞ。
今村北2町にて田島柳とて1株の柳あり、この神現せし所なりとぞ。
石鳥居あり。
祭禮6月15日。

末社 伊勢宮

祭神 伊勢宮?
相殿 天王神
本社の西にあり。

寶物

御正體 1面。
『奉懸御聖躰花聖一面康永三年甲申四月十一日和泉國近木荘住人禅尼妙覚』と書付あり。
※康永3年=1344年
御正體 1面。
『奉懸御正躰長元二己巳年九月吉日尾張國住人佐瀬宮内小輔平正勝敬白』と書付あり。その時代の物とは見えず。
※長元2年=1029年

神職 室井出雲

何の頃にか権大夫某という者当社の神職となる。それより9世の孫を祝守国長とて寛文中(1661年~1673年)神職たり。
今の出雲国貞が7世の祖なり。
(昔、室井と称せるもの長沼氏に仕え、田島四天の1人なりといいこの村に住し室井氏を称すれば、その子孫なるもしるべからず)
古文書1通を蔵む。その文如左(※略)

熊野宮

祭神 熊野宮?
鎮座 不明
田出宇賀神社と同所にこれを祭る。

末社 稲荷神社

祭神 稲荷神?
本社の西にあり

寶物

御正體 3面。
一は『奉上本地御正体三尊康和二九月九日源貞明』と書付、
一は『熊野大權現奉懸御正體一面右者為信心大施主無病悉地心中有故皆令満足殊有重大平故也貞和元年十二月二日願主源有重敬白』と書付、
一は『奉納正體一面宮本熊野本宮産社文安三九月九日星弾正』と書付あり。
この外にも御正體数多あり。銘なければ載せず。
※康和年=1100年、貞和元年=1345年、文安3年=1446年

神職 渡邊伹馬

昔、何の頃に架千一という巫女神職を司り、相続いて9世萬一に至るまで巫女にて神職を勤む(萬一は寛文中(1661年~1673年)の者なり)。萬一が子を弾正宗忠といい、今の但馬宗興は宗忠が5世の孫なりとぞ。

八幡宮

祭神 八幡宮?
相殿 摩利支天神
創設 不明
村南鴫山の麓にあり。
鎮座の初を詳にせず。
鳥居拝殿あり。
薬師寺これを司る。

愛宕神社

祭神 愛宕神?
草創 不明
鴫山の頂にあり。
草創の年代を知らず。
ここに登れば限界広く数多の村落が一望の中にあり。
鰐口一口を懸く。径1尺3寸余。
『奉寄進愛宕山鰐口田島城城主蒲生主計助敬白慶長十八年五月五日吉日大工若松住長谷川清六』と彫付あり。
村民の持なり。

稲荷神社

祭神 稲荷神?
鎮座 不明
端村折橋の戌亥(北西)の方にあり
鳥居あり。村民の持なり。

寺院

徳昌寺

村南4町山麓にあり。
曹洞宗興国山と號す。本郡南青木組天寧村天寧寺の末山なり。
縁起に、昔長沼五郎(悪五郎家政が子とにや。古蹟の条下と照し見るべし)下野国長沼より来りし時この寺を建立して菩提所とし養室という僧を開山とす。
本尊釈迦客殿に安ず。
鐘楼門あり。鐘径1尺5寸『寛文五乙巳年七月吉辰』と彫付けあり(寛文5年=1665年)。

稲荷神社

境内にあり。

長沼盛秀墓

客殿の西にあり。
五輪、高2尺余。
台石に『右志者者為花翁正雪弾正門□□□塔波者也于時天政十八三月二日施主敬白』と彫付けあり(天正18年=1590年)。
またこの墓の左右に五輪2基あり。彫付けあれども剥落す。これも長沼氏一族の墓なりという。

教林寺

村中にあり。
時宗養貴山と號す。相模国藤沢洗浄寺の末山なり。
開基詳ならず。何の頃にか覚阿彌という僧中興すという。
本尊弥陀、長2尺2寸、恵心作という。客殿に安ず。

薬師寺

教林寺の東にあり。
金光山と號す。山城国醍醐山松橋無量壽院の末寺真言宗なり。
何の頃の開基ということ詳ならず。
長沼氏代々の祈願所なりしとぞ。
延徳2年(1490年)日海という僧住してより相続いて今に至る。

本堂

3間半四面、南向き。
薬師を安ず。
秘佛なり。

観音堂

本堂の前にあり。

寶物

古文書 1通。
豊臣家の文書なりという。
今陣屋の地に法花寺という寺ありしといい伝えれども果たしてその寺の事にや否を知らず。
その文如左(※略)

慈恩寺

村中にあり。
養命山と號す。薬師寺の末山真言宗なり。
慶長の頃(1596年~1615年)草創にてその後良叶という僧中興すという。
本尊千手観音客殿に安ず。

大日堂

客殿の前にあり。

墳墓

古塚

村東10町余、田邊原(田邊村と入逢の地なり。田邊村の条下に出す)の中に数堆相列れり。
松川組松川村に天正19年(1591年)豊臣家検地ありし時、官使細野小右衛門と云うもの彼村に宿せり。
当時この邊にて事あれば貝を吹き人を聚ることなりしが、何人にか仔細ありて貝を吹きしに、近村の農民相圖(あいず)の如く馳聚り、誤て官使の宿所に押寄せんとのことなりと意得(こころえ)て、(やが)て細野が下人等と争闘し互に死人許多(あまた)に及べり。その後蒲生家より彼凶徒を捕えこの原にて死罪に行いしと云い伝う。
この塚或くばその(しかばね)を埋し所にや。

古蹟

鴫山城趾

村南山麓にあり。
本丸、東西46間・南北13間。
外郭、東西1町10間・南北2町50間。
土居・空隍(からぼり)の形存せり。
また土門・大門と云う2門ありし跡なりとて石垣今に残れり。
東北の方は地形漸々に低く民家に続き、西南は岩山によりて要害とす。
鎌倉右大将家の時、長沼悪五郎家政と云う者下野国結城長沼よりここに来り始て住し。その子孫代々この処に居りしと云う。
長祿の頃(1457年~1460年)長沼正明と云う者あり(河島組糸沢村龍福寺に正明が位牌あり)。
塔寺村八幡宮長帳に長禄2年(1458年)この城にて合戦の事を記せるは正明が時にや。
また、明應(1492年~1501年)・大永(1521年~1528年)の頃長沼盛秀と云う者あり(熨斗戸組井桁村鹿島神社及び湯入村日光神社の板札に載す)。永正18年(1521年)黒川を攻んとて檜玉峠(大沼郡橋爪組福永村)まで兵を出せしが、残らず打たれる(よし)長帳に見えたり。この盛秀が時にや(一説にこの事を豊後守実国と云う者の時とす)。
また龍福寺所蔵永禄元年(1558年)の文書に長沼盛勝の名あり(平五郎と称しこの時14歳なりしと云う)。
弥七郎盛秀(上の秀盛とは別人なり)は天正の頃の人なり。葦名没落の後伊達氏に降参しその後この地に終りしと見え。徳昌寺に墓あれども子孫いかがなりしにか詳ならず。その盛なりし頃は田島・関本・針生の三郷より立岩郷までもその所領なりしと云う。今なお家人の宅址処々に残れり。
蒲生氏の時北川平左衛門某をここに置き、上杉氏の時小国但馬某住し、蒲生氏再封の後蒲生主計某と云う者居れり。

館跡

村東4町にあり。
土人折橋館と云う。
東西26町・南北24間。
相伝て長沼氏の臣折橋某が居館なりと云う(湯田・折橋・星・室井とて田島四天と称せしとぞ)。
土井・(ほり)の形なお存す。