府城の南に当り行程10里12町余。
家数222軒。長20町余・幅8間。両頬に住し、南は山に倚り北は大川に近し。
村東に一里塚あり。
東29町30間
長野村の界に至る。その村まで1里4町。
西は村際にて
丹藤村に界ふ。
南は
新町村及び
河島組中荒井村の山に連なり界域分ちがたし。新町村は未申(南西)に当り13町20間。
北6町30間
丹藤村の界に至る。その村まで9町30間。
また
辰巳(南東)の方24町
水無村の界に至る。その村まで1里。
この村山中に住すれども地面開けて水田多し。
毎月6度の市日あり、近村より来り諸品を交易す。
端村
宮本
本村の北3町にあり。
家数9軒、東西16間・南北30間。
四方田圃なり。
折橋
宮本の東4町余にあり。
家数20軒、東西2町・南北8町。
北は大川に傍ひ三方田圃なり。
古寺
本村より辰巳(南東)の方8町にあり。
家数4軒、東西1町・南北20間。
南は山に倚り、北に田圃あり。
櫃島
本村より丑寅(北東)の方2町にあり。
家居1軒。
山川
鴫山
村南4町にあり。
登ること3町余、9折最嶮しく満山木立深く、西南は巉岩高く峙てり。
穢ある者この山に入るときは必ず山鬼の祟ありて、或は上る人を擲ち、或は風雨俄に起こるという。
大川
村より子丑(北~北北東の間)の方9町にあり。
丹藤村の境内より来り、東に流るること30町
長野村の界に入る。
広40間計。
水無川
村東10町にあり。
水無村の境内より来り、北に流るること20町大川に入る。
清水
鴫山の半腹にあり。
1間四方、最清冽なり。
旱歳にもかれずという。
水利
田島堰
郡署
陣屋
村中にあり。
役人を置て本組及び小出組・弥五島組・松川組・楢原組・高野組・河島組・熨斗戸組・古寺組・和泉田組・黒谷組・大塩組・
大沼郡滝谷組・野尻組・大谷組・大石組・永井野組・冑組・東尾岐組・大塩組・下野国
塩屋郡河島組を統制せしむ。
倉廩
米倉2屋
共に村中にあり。本組の米を納む。
神社
西宮神社
村西にあり。
鳥居拝殿あり。
神職 塚本左近
先祖を八郎一光という。
何の頃にか当社の神職となる。
慶長の頃(1596年~1615年)文十郎保光という者あり。
今の左近光安は保光が10世の孫なりとぞ。
田出宇賀神社
端村宮本にあり。
いつの頃にか田畝の中より出現し給ひし故名けしとぞ。
今村北2町にて田島柳とて1株の柳あり。この神現せし所なりとぞ。
石鳥居あり。
祭禮6月15日。
末社 伊勢宮
本社の西にあり。
寶物
御正體 1面
『奉懸御聖躰花聖一面康永三年甲申四月十一日和泉國近木荘住人禅尼妙覚』と書付あり(康永3年:1344年)。
御正體 1面。
『奉懸御正躰長元二己巳年九月吉日尾張國住人佐瀬宮内小輔平正勝敬白』と書付あり(長元2年:1029年)。その時代の物とは見えず。
神職 室井出雲
何の頃にか権大夫某という者当社の神職となる。それより9世の孫を祝守国長とて寛文中(1661年~1673年)神職たり。今の出雲国貞が7世の祖なり。
(昔、室井と称せるもの長沼氏に仕え、田島四天の1人なりといいこの村に住し室井氏を称すれば、その子孫なるもしるべからず)
古文書1通を蔵む。その文如左(※略)
熊野宮
田出宇賀神社と同所にこれを祭る。
末社 稲荷神社
本社の西にあり
寶物
御正體 3面
一は『奉上本地御正体三尊康和二九月九日源貞明』と書付、
一は『熊野大權現奉懸御正體一面右者為信心大施主無病悉地心中有故皆令満足殊有重大平故也貞和元年十二月二日願主源有重敬白』と書付、
一は『奉納正體一面宮本熊野本宮産社文安三九月九日星弾正』と書付あり。
この外にも御正體数多あり。銘なければ載せず。
※康和年=1100年、貞和元年=1345年、文安3年=1446年
神職 渡邊伹馬
昔何の頃に架千一という巫女神職を司り、相続いて9世萬一に至るまで巫女にて神職を勤む(萬一は寛文中(1661年~1673年)の者なり)。萬一が子を弾正宗忠といい、今の但馬宗興は宗忠が5世の孫なりとぞ。
八幡宮
村南鴫山の麓にあり。
鎮座の初を詳にせず。
鳥居拝殿あり。薬師寺これを司る。
愛宕神社
鴫山の頂にあり。
草創の年代を知らず。
ここに登れば限界広く数多の村落が一望の中にあり。
鰐口一口を懸く。径1尺3寸余、『奉寄進愛宕山鰐口田島城城主蒲生主計助敬白慶長十八年五月五日吉日大工若松住長谷川清六』と彫付あり。
村民の持なり。
稲荷神社
端村折橋の戌亥(北西)の方にあり
鳥居あり。村民の持なり。
寺院
徳昌寺
村南4町山麓にあり。
曹洞宗興国山と號す。本郡南青木組天寧村
天寧寺の末山なり。
縁起に、昔長沼五郎(悪五郎家政が子とにや。古蹟の条下と照し見るべし)下野国長沼より来りし時この寺を建立して菩提所とし養室という僧を開山とす。
本尊釈迦客殿に安ず。
鐘楼門あり。鐘径1尺5寸『寛文五乙巳年七月吉辰』と彫付けあり(寛文5年=1665年)。
稲荷神社
境内にあり。
長沼盛秀墓
客殿の西にあり。
五輪、高2尺余。台石に『右志者者為花翁正雪弾正門□□□塔波者也于時天政十八三月二日施主敬白』と彫付けあり(天正18年=1590年)。
またこの墓の左右に五輪2基あり。彫付けあれども剥落す。これも長沼氏一族の墓なりという。
教林寺
村中にあり。
時宗養貴山と號す。相模国藤沢洗浄寺の末山なり。
開基詳ならず。何の頃にか覚阿彌という僧中興すという。
本尊弥陀、長2尺2寸、恵心作という。客殿に安ず。
薬師寺
教林寺の東にあり。
金光山と號す。山城国醍醐山松橋無量壽院の末寺真言宗なり。
何の頃の開基ということ詳ならず。
長沼氏代々の祈願所なりしとぞ。
延徳2年(1490年)日海という僧住してより相続いて今に至る。
本堂
3間半四面、南向き。
薬師を安ず。
秘佛なり。
観音堂
本堂の前にあり。
寶物
古文書 1通
豊臣家の文書なりという。
今陣屋の地に法花寺という寺ありしといい伝えれども果たしてその寺の事にや否を知らず。
その文如左(※略)
慈恩寺
村中にあり。
養命山と號す。薬師寺の末山真言宗なり。
慶長の頃(1596年~1615年)草創にてその後良叶という僧中興すという。
本尊千手観音客殿に安ず。
大日堂
客殿の前にあり。
墳墓
古塚
村東10町余、田邊原(田邊村と入逢の地なり。
田邊村の条下に出す)の中に数堆相列れり。
松川組松川村に天正19年(1591年)豊臣家検地ありし時、官使細野小右衛門というもの彼村に宿せり。
当時この邊にて事あれば貝を吹き人を聚ることなりしが、何人にか仔細ありて貝を吹きしに、近村の農民
相圖の如く馳聚り、誤て官使の宿所に押寄せんとのことなりと
意得て、
頓て細野が下人等と争闘し互に死人
許多に及べり。その後蒲生家より彼凶徒を捕えこの原にて死罪に行いしといい伝う。
この塚或くばその
尸を埋し所にや。
古蹟
鴫山城趾
村南山麓にあり。
本丸
東西46間・南北13間。
外郭
東西1町10間・南北2町50間。
土居
空隍の形存せり。
また土門・大門という二門ありし跡なりとて石垣今に残れり。
東北の方は地形漸々に低く民家に続き、西南は岩山によりて要害とす。
鎌倉右大将家の時、長沼悪五郎家政という者下野国結城長沼よりここに来り始て住し。その子孫代々この処に居りしという。
長祿の頃(1457年~1460年)長沼正明という者あり(
河島組糸沢村龍福寺に正明が位牌あり)。
塔寺村八幡宮長帳に長禄2年(1458年)この城にて合戦の事を記せるは正明が時にや。
また明應(1492年~1501年)・大永(1521年~1528年)の頃長沼盛秀という者あり(
熨斗戸組井桁村鹿島神社及び
湯入村日光神社の板札に載す)。永正18年(1521年)黒川を攻んとて檜玉峠(
大沼郡橋爪組福永村)まで兵を出せしが、残らず打たれる
由長帳に見えたり。この盛秀が時にや(一説にこの事を豊後守実国という者の時とす)。
また龍福寺所蔵永禄元年(1558年)の文書に長沼盛勝の名あり(平五郎と称しこの時14歳なりしという)。
弥七郎盛秀(上の秀盛とは別人なり)は天正の頃の人なり。葦名没落の後伊達氏に降参しその後この地に終りしと見え。徳昌寺に墓あれども子孫いかがなりしにか詳ならず。その盛なりし頃は田島・関本・針生の三郷より
立岩郷までもその所領なりしという。今なお家人の宅址処々に残れり。
蒲生氏の時北川平左衛門某をここに置き、上杉氏の時小国但馬某住し、蒲生氏再封の後蒲生主計某という者居れり。
館跡
村東4町にあり。
土人折橋館という。
東西26町・南北24間。
相伝て、長沼氏の臣折橋某が居館なりという(湯田・折橋・星・室井とて田島四天と称せしとぞ)。
土井・隍の形なお存す。
参考・補足
外部リンク等
余談
折橋の天豊稲荷がYahoo!地図では古峰神社と誤っているように、
西番場甲にある
古峰神社も誤りである可能性が高いです。
鰐口が懸けられているので、そもそも神社じゃなく仏教関係のお堂かと。
古地図と南山橋
※地理院地図(大正2年測図/昭和8年要部修正測図)
南山橋
地図右上、現在だと大川(阿賀川)に田島橋が架けられている所に「南山橋」と記載があります。
福島県土木史にそれらしき記述あったので引用します。
26日朝方から雨が降り出し、夕方ころから強くなり、27日早朝から日中にかけて、暴風雨となった。県北地方と会津地方は、特に被害が多かった。
(中略)
会津地方では、27日の7時に南会津郡下の伊南川(16尺)、荒海川(阿賀野川:15尺)の洪水がはなはだしく、南山橋を除くほかは、橋梁はほとんど流失し、小沼崎県道(国道12号線)が崩壊して交通途絶した。
紀州潮岬付近にあった低気圧が東北東に進路ととって進み、23日から24日の朝にかけて、本県沖を通った台風並の低気圧(中心気圧980mb)により、県下全域が暴風雨による被害をうけた。
(中略)
南会津地方では、田島町を流れる大川が10尺余の増水にて、長野橋(50間)流出、被害300円。また、円藤前川原護岸100間決壊。左岸田島字古川東岸80間、永田風下20間が決壊する。
伊南川は、右岸朝日村大字亀岡の堤防100間決壊、その他数カ所決壊する。橋梁は、若松~沼田線の村上橋、内川~田島線の合橋、若松~宇都宮線の田島町大字田島、芥除、南山橋の2ヶ所等が流出。
この台風は戦後初の台風であり、女性の名がつけられ東北地方では岩手県一ノ関方面水害のため交通通信が途絶したので、米軍の厚意により東北軍政府司令官スタットハム大佐、並びに宮城軍政府司令官スラス中佐が宮城県に対して救援物資の空輸に協力する体制が施された。日本赤十字本社では、水害救援のため各班員12名をもって栃木・茨木・群馬・埼玉・東京・北海道・宮城・福島の9地方に派遣した。
また、政府は、関東・東北水害に対する応急の救助対策委員会を9月18日の臨時閣議において、内郭に設置し、風水害による復旧対策が国管案が本決まりとなった。
このため、利根川流域の水害で生活必需品や物資を失った水災者に対して、市町村長または警察署長などの証明で1人あたり千円、一世帯当たり5千円の範囲内で第一封鎖から自由支払いを認める特例が出された。
(中略)
田島地方では大川・桧沢川など氾濫して、桧沢川の堤防25ヶ所、大川筋では数十箇所、田島橋・南山橋・桧沢橋など20ヶ所の橋梁流出。田島町では床上浸水12戸、床下浸水30戸、倭橋(79m)、高野川の高野橋、伊南川の堤防2,100m決壊(500万円)、只見川筋850m、叶津川護岸決壊500m。
キティ台風は、31日夜半本県の西側をかすめて、日本海に抜け1日9時には北海道の西方海上に遠く過ぎ去った。
会津地方は、31日夜21時頃には、完全に暴風圏に入り、家屋の崩壊、堤防の決壊なと各所に続出、若松市内では送電線が断線して、市内はくらやみとなり住家倒壊24戸、立木倒壊159本、電柱6本が倒れた。
県下の電話線は寸断、国鉄ダイヤも混乱する。
(中略)
南会津地方は、田島町の風速は最高30m/secを越え、雨量は168.5mmに達し、伊南川・水無川・阿賀川(大川)などの増水によって、堤防は12ヶ所にわたって決壊、伊南川に架る和泉田橋(150mのコンクリート橋)の左岸が流出、檜枝岐村は台風の中心に最も近く、雨量250mm以上の暴雨出水により県道の細木橋をはじめ3ヶ所が落橋、交通不能、電話も不通のため1日以来3日に至るまで孤立状態となる。山口臨時土木監督所が3日まで河川の堤防決壊35ヶ所(2億4,389万1千円)、道路の破壊17ヶ所(443万8千円)、道路12ヶ所(821万円県費補助の分で町村道)で被害額は合計2億6,287万2千円であった。
田島町は、阿賀川に架る若松~田島間の南山橋など3ヶ所落橋(田島橋)をはじめ道路の決壊29ヶ所(748万5千円)、橋梁の流出及び落橋19ヶ所(55万5千円)、河川の堤防決壊67ヶ所(1億3,013万9千円)、砂防流出4ヶ所(3,880万円)で被害総額合計1億8,396万9千円であった。
キティ台風(昭和24年)までは南山橋が使われていた事がうかがえる。
田島橋の竣工は1962年(昭和37年)。全面的に架替えを行い、それまでの南山橋・宝橋の替わりに田島橋を架けることになった。
参考:土木学会附属土木図書館より「
田島橋」
奥会津の語り火より『田島町概略図』
最終更新:2026年06月19日 22:38