この村もと只石に作る。寛文中(1661年~1673年)今の字に改めき。
府城の西南に当り行程19里1町余。
家数16軒、東西1町30間・南北30間、山間に住し小滝川あり。
東2里
入小屋村の山に界ふ。
西30間
古町村の界に至る。その村まで1町30間。
南11町
古町村の山に界ふ。
北16町
木伏村の山に界ふ。
山川
小滝川
村南1町にあり。
源は境内の山中より出て、西に流るること2里余、
古町村の界に至る
神社
日光新宮
祭神 |
三穗津姫命 |
鎮座 |
不明 |
村東16町にあり。
鳥居あり。界村渡部信濃が司なり。
日光瀧尾神社
祭神 |
味耜高彦根命 |
相殿 |
齋宮 |
鎮座 |
不明 |
日光新宮の東7町30間にあり。
鳥居あり。渡部信濃が司なり。
日光本宮
日光瀧尾神社の東6町30間にあり。
鳥居あり。渡部信濃これを司る。
於佐乃波幾神社
祭神 |
鹿葦津姫命 |
相殿 |
山神 |
鎮座 |
不明 |
村西30間にあり。
鳥居あり。古町村法導院司る。
古蹟
館跡
村中にあり。
東西40間・南北1町。
天正の頃(1573年~1593年)伊南源助政信住せり。
今民家となれり。
源助は河原田治郎少輔盛次が随一の郎等にて廔軍功あり。中にも天正17年(1589年)7月7日盛次和泉組梁取の館を救いしとき伊達政宗に興せし木伏無庵同右馬丞など云う者を討取りぬ。その後政宗盛次を討んとて伊南の地に間者を遣しひそかに盛次が家人等を語らひしに、源助間者を欺きやがて味方の二心ある者を糺し人質をとり、河原田を勧て上杉氏を頼み伊南の地を保ち政宗を拒きしとぞ。
子孫当家に仕えて今にあり。
外部リンク等
- Google Map
- 多々石地区
- 小滝川
- 日光新宮?
- 日光瀧尾神社?
- 日光本宮?
- 於佐乃波幾神社?
- 館跡?
- その他
- 参照
日光三社
現存しておらず資料も少ないので確かな事わからない。
『御案内書紀 古町組』内の多々石村の項に
一 社 四ヶ所
権佐神社
日光新宮社
同 本宮社
同 瀧尾社
との記載がある。権佐神社とは於佐乃波幾神社の事と思われるが確証がない。
安永五丙申年(1776年)日光新宮様去る十日死去につき、三日鳴物禁止、及び尾張中将同日死去につき、今日より鳴物五日、普請は本日のみ停止の触れ出る。
尾張中将とは
徳川治興(安永5年7月8日没)の事かと思われるが南郷地域との関連性は不明。
余談:於佐乃波幾は「おさのはぎ」と読むようです。2022年3月07日に
古町の廣瀬神社と合併し解散したとの事。
商号又は名称
於佐波幾神社
商号又は名称(フリガナ)
オサハギ
本店又は主たる事務所の所在地
福島県南会津郡南会津町多々石字鎧ケ沢820番地1
状態
登記記録の閉鎖等(合併による解散等)
事由発生年月日:令和4年3月7日
令和4年3月7日福島県南会津郡南会津町古町字前山2536番地廣瀬神社(5380005009928)に合併し解散
最終更新年月日
令和4年3月31日
多々石林道
(関東森林管理局『福島の森林鉄道WEB史料室』より)
1.多々石林道の概要
名称:多々石林道(たたいしりんどう)
運用者:山口営林署
延長:6,084m
幅員:1.8m
平均勾配:68.0‰
最急勾配:93.45‰
最小半径:10m
森林鉄道としての存続期間:昭和13~17年度
所在市町村:伊南村(現在の南会津町)
2.多々石林道の年表
年度 |
森林鉄道としての整備状況 |
森林鉄道としての延長(m) |
(昭和12年) |
(多々石稲荷沢に多々石貯木場(0.89ha、製品倉庫165m2、貯炭倉庫330m2)を整備。(昭和19年には一部(0.06ha)を水中貯木場に整備)) |
|
昭和13年 |
6,084m(うち橋梁60m)を軌道として新設。うち、1,380mは、既存の車道の多々石林道を改修。軌条は、1,327mを若松営林署(博士山林道)より、4,980mを水戸営林署(御前山林道)より。 |
6,084 |
昭和16年 |
1.294mを廃止。6kg軌条1,294mを中之条営林署四万林道木根宿線(後に木根宿林道に改称)へ転用。 |
4,790 |
昭和17年 |
全線廃止。 |
0 |
推定位置図によれば、国道401号沿いの「こたき食堂」付近~
本谷沢付近までの区間に森林鉄道が敷設されていたようです。
※推定位置図より
この峠道は林道ライダーにはよく知られているそうで『多々石林道(山さ行がねが)』に走破レポートが公開されてます。
最終更新:2025年09月03日 17:09