府城の西南に当り行程17里8町。
家数27軒、東西2町・南北20間、戸山川に傍て山間にあり。
木地小屋
駒戸
本村の東1里にあり。
家数6軒、東西1町・南北15間、駒戸峠の麓に住す。
山川
唐倉山
村南7町にあり。
頂まで10町。雑木多し。
西南の方
木伏村に属す。
駒戸峠
村東1里にあり。
登ること35町、
針生村の峯を界ふ。
府下に通る道なり。
戸山川
村北にあり。
水源は
姥懐という処より出て、戌亥(北西)の方に流るること2里7町、
中小屋村の界に入る。
関梁
橋
村東4町40間。
府下の通路戸山川に架す。
長8間・幅5尺。
神社
柄倉神社
村西3町10間余にあり。
祭神及び鎮座の始詳ならず。
鳥居あり。渡部信濃が司なり。
山神社
村東10町にあり。
鳥居あり。村民の持なり。
参照
外部リンク等
- Google Map
- 参照
- 南郷村史 第5巻 (民俗編)
- 柄倉神社 - 南郷村史 第1巻 (通史)
- 東(あずま) - 南郷村地名由来調査報告書 : 山間部 ふるさと南郷・山の散歩道
- 駒止峠と六地蔵 - みなみあいづ町ペディア
村名が東になるまで
(村史より)
ごく昔は木地職の人が住んでいて、沢口村(現在山口)より一番入之小屋という意味で入小屋と呼んでいた。舘岩保城に住んでいた木地師、小椋広吉方の古文書によると、天文五年(1536)入小屋に木地職三戸あったとある。この当時から入小屋と呼んでいた。現在の平野姓の人達は、今の伊南村大桃から移住してきた人である。
よって入小屋の人達の寺は、伊南村小立岩の瀧岩山光明寺である。安政四年(1857)の大桃市左衛門日記には「入小屋」とあり、慶応ニ年(1866)の大桃市左衛門日記には「入高野」となり、明治二年(1869)の平野辨治の覚書にも「入高野」となっている。明治六年平野孫三郎(大工)覚帳から再び「入小屋」となった。
入小屋の人達は、「入ノ小屋」なんて古い村名でなく新しい村名に変えようと昭和三十四年入小屋から「東」あずまと名称を変えた。
柄倉神社
他には見られない神社名で、大字東輪間にある。由来では、延宝三年(1675)に祀った三倉大明神が初めであり、三倉というのは、唐倉・石倉・申倉の地名である。石倉から白神様が石に乗って出られ、申倉からは山の神が出られたとある。祭神は倉稲魂命といい、穀物の神、農業の神であり『新編会津風土記』にも「柄倉神社」とある。
東集会所裏手の山の上にあります。
駒止峠とひっそりたたずむ六地蔵 -The six jizo standing silently at Komado Pass-
(みなみあいづ町ペディアより)
1881(明治14)年1月南郷村で起きた事件を解決するために、二人の警察官が南郷村に向かいましたが、駒止峠で猛吹雪に遭い、一人は亡くなりました。また、1923(大正12)年3月には郵便局員が郵便物を背負って駒止峠を越えている途中に吹雪に遭い亡くなりました。1938(昭和13)年2月には郵便物を運ぶ人たちとその他の10人が猛吹雪の中で行方不明になり一人が亡くなりました。1956(昭和31)年頃の南会津町には金嶺号と銀嶺号と呼ばれる雪上車(南極や北極で働く車)が走っており、郵便物などを運んだりしていました。その銀鵄号が川に転落し一人が亡くなりました。
過酷な雪道は過酷で不幸な事故が多く、町の人たちはトンネルの開通を強く望んだのでした。
上記事故者の慰霊の為六地蔵(上記リンク参照)が立てられています
最終更新:2025年09月03日 16:45