天正の頃(1573年~1593年)河原田盛次、芦名家に従て伊南の地を領し、館をここに築て居所とせし故伊南町と称す。後に青柳村に城郭を構て伊達家を拒みしが敵退て再び還住す。因て今の名に改めしとぞ。
昔は毎月6度の市の日あり。今は12月22日・27日の両日のみなり。
府城の西南に当り行程19里。
家数50軒、東西1町・南北4町。
町北は山に倚り西は檜枝岐川に近く南北田圃なり。
村中に官より令せらるる掟条目の制札を懸く。
東1町
多々石村の界に至る。その村まで1町30間。
西4町28間
小塩村に界ひ檜枝岐川を限りとす。その村まで6町30間余。
南12町6間
白沢村の界に至る。その村まで18町20間。
北14町18間
木伏村の界に至る。その村まで18町20間。
また
戌亥(北西)の方14町20間
青柳村に界ひ檜枝岐川を限りとす。その村まで16町20間。
小名
道成
本村の北1町にあり。
家数31軒、東西1町・南北2町。
東は山に倚り西は檜枝岐川に近く南北田圃なり。
山川
檜枝岐川(伊南川)
俗に伊南川と云う。下同。
村西4町20間余にあり。
白沢村の境内より来り、北に流るること30町、
木伏村の界に入る。
広30間。
小滝川
村西1町にあり。
多々石村の境内より来り、戌亥(北西)の方に流れ北に転じ、檜枝岐川に入る。
境内を流るること6町。
広7間。
「いはな」・鰥を産す。
関梁
橋3
一は村南1町小滝川に架す。長8間。
府下の通路丸木橋なり。
一は村西1町小滝川に架す。長8間。
一は村西4町檜枝岐川に架す。長12間。
共に村の通路丸木橋なり。
倉廩
米倉
村西30間にあり。
本組の米を納む。
神社
鹿島神社
祭神 |
鹿島神? |
相殿 |
伊勢宮 |
|
稲荷神 |
|
鹿島神 |
|
祇園神 |
|
権現 |
鎮座 |
不明 |
村南2町30間にあり。
鳥居あり。和泉田組界村渡部信濃が司なり。
愛宕神社
祭神 |
愛宕神? |
相殿 |
伊勢宮 |
|
稲荷神 |
|
住吉神 |
鎮座 |
不明 |
村東3町10間にあり。
鳥居あり。渡部信濃が司なり。
羽黒神社
村より丑寅(北東)の方3町余にあり。
鳥居あり。修験法導院司る。
富士神社
村の辰巳(南東)の方5町余にあり。
鳥居あり。法導院これを司る。
山神社
村より辰巳(南東)の方4町30間にあり。
鳥居あり。村民の持なり。
寺院
照国寺
小名道成にあり。
金光山と號す。近江国
蓮華寺の末山、時宗なり。
何の頃にか河原田氏の祖草創し、蓮華寺の徒一阿という僧を請て住せしめ、寺産
許多を寄付し、
塔頭十余字ありてさばかりの梵宇なりと云う。その後も河原田氏の臣・芳賀安房某と云うもの及びその支族年
壇越の因ありて
什物も多かりしが、天正18年(1590年)に
兵燹に罹り、佛像及び
寺宝数箇を遺し余は
悉く亡せしとぞ。寛文の頃(1661年~1673年)までは
猶塔頭四字ありしと云う。
客殿
9間に7間。南向。
本尊弥陀、長3尺。
脇立観音・勢至共に長2尺、運慶作と云う。
本尊の背後に『嘉祿三年三月』(
舊事雑考にはこの下に三月云云とあり。今は剥落して見えず)と書付あり。
※嘉祿三年=1227年
鐘樓門
客殿の南にあり。
3間四面。
金光山と云う額あり。風早前大納言(諱を伝えず)の筆なり。
鐘、径2尺5寸。『寛政七乙卯六月當山二十一世眞阿俊長再興』と彫付あり。
※寛政7年=1795年
庵
鐘樓門の南にあり。
5間に2間半。
薬師堂
客殿の南にあり。
薬師像、長3尺。古佛なり。
熊野宮
薬師堂の南にあり。
天神社
客殿の丑寅(北東)の方にあり
石塔三基
共に客殿の戌亥(北西)の方にあり。
一は高9尺余、『浄光院賢阿普淸盛蓮大禪定門天正九辛巳三月二十八日』と彫付あり。河原田盛政と云う者の墓なりと云う。
一は高4尺、『覺阿淸圓信士覺阿妙圓信女天正十八年四月十五日』と彫付あり。何人なるを知らず。
一は高4尺余、『面阿見道信士慶長五子八月十二日』と彫付あり。渡部丹波守某と云う者の墓なりと云う。
共に後人の建てしものと見ゆ。
※天正9年=1581年、天正18年=1590年、慶長5年=1600年(庚子)
寶物
鉦鼓 1箇。径5寸6分。筑紫小入道作と彫付けあり。
六字名號 1枚。親鸞筆。
三尊弥陀掛物 1幅。恵心筆。
末廣 1本。河原田氏の寄付という。
善導寺
村東1町にあり。
浄土宗成寶山と號す。
府下
五之町高巖寺の末残なり。
慶長8年(1603年)廓譽と云う僧開基す。
本尊弥陀客殿に安ず。
虚空蔵堂
境内にあり。
観音堂
虚空蔵堂の辰巳(南東)の方にあり。
法導院
本山派の修験なり。開基の年代詳ならず。
昔は龍水山萬福寺と號せしとぞ。
天文の頃(1532年~1555年)來宥と云う者中興す。
現住宥玄は十世の孫なり
墳墓
石塔
村北にあり。
高2尺余『樂阿彌陀佛悅全文祿元壬辰天五月八日』と彫付あり。
小沼外記某と云う者の墓なりと云う。
後人の建しものと見ゆ。
※文禄元年=1593年
古蹟
館跡3
一は30間四方西館と云う。
一は36間四方東館と云う。
共に村西2町計にあり。
土居堀の形存す。河原田盛次住せり。
今傍の田圃に横町・石原町・北小路・殿小路等の字あり。
一は村東1町にあり。
東西45間・南北38間。
小沼柵と云う。
永禄中(1558年~1570年)芳賀大炊某と云う者住せりといへども詳ならず。
人物
河原田治部少輔盛次
藤氏にて結城七郎朝光二世の孫長廣と云う者。下野国河原田郷に居住せしより初て河原田と称し、十一世にして盛次に至りしと云う。世世葦名氏に従い伊南の地を領せり。
天正17年(1589年)伊達氏会津を襲いし時、盛次は檜原口の警固として大塩村にありしが、6月5日伊達勢既に磨上原の方に寄来ると聞き引返して彼地に向い僅の手勢をもて合戦し、味方惣敗軍となり力なく引退き黒川の西なる中荒井村に留まりその動静を覘いしに、義廣遂に佐竹氏に走り政宗黒川の城に入り、田島の城主長沼盛秀を始め芦名累代の家臣多くは伊達氏に属せしかば、盛次慷慨に堪えず、一先領地に引籠り、再び芦名恢復の功をはからんとて高田村の邊まで引取りしに思う仔細やありけん。伊南源助政信と云う郎等を使として一戦を挑しに政宗河原田が義気を感じ、且窮寇を追て士卒を損ぜんことを慮り慰諭して源助を皈しければ盛次遂に久川城(青柳村)に楯籠る。この時盛秀使をもて伊達家に降らんことを勧む。河原田大いに怒り盛秀が不義をせめ使いを皈す。盛秀も怒り政宗にかくと告げ加勢を請両度まで攻寄けれども河原田よく防守せり。折しも積雪路を埋み師を出しがたければ盛秀しばし攻来ることを得ざれども、政宗が大軍固より敵すべきにはあらざれば郎等主膳入道玄佐と云う者を私かに伏見に上せ、石田三成に因て仔細を披露せしに豊臣家やがて小田原の北條を征伐し、その後政宗が罪を糺さるべしと玄佐歸て具さに語りければ盛次力を得て愈その志を堅せり。黒川よりは間者を入れてさまざまに誘えしかば盛次が家の子郎等多くは内々政宗に興せしに伊南源助が智略を以て隱謀の人々より質を出させ盛次が嫡子龜坊とて13歳なるを添え上杉景勝の方に遣し援兵をこい辛うじて城を守れり。然れども梁取を始め和泉田小林等残らず攻落されしかば危急旦夕に迫れり。翌年太閤小田原に至り政宗の罪を正し会津仙道を收公せらる。盛次ここに至て初て眉を開しとぞ。時に太閤会津に移るべきより聞えければ盛次先立ちて所領を打起ち下野国宇都宮まで出向いけるが、故ありて謁見を遂げず空く皈郷し日を経て病で卒すと云う。
古文書2通あり(前の1通は法導院所蔵し後の1通は落合村長次右衛門が家に伝う)
因に載す(※略)
追記:
法人データバンクに合併した神社の情報が記載されていました。一部引用します。
福島県南会津郡南会津町多々石字鎧ケ沢820番地1於佐波幾神社(6380005009828)を合併
福島県南会津郡南会津町白沢字上ハ田1285番地宇奈太理神社(5380005009820)を合併
福島県南会津郡南会津町耻風字上ハ平293番地鬼渡神社(2380005009831)を合併
最終更新:2025年06月07日 14:21