会津郡古町組古町村

陸奥国 会津郡 古町組 古町村
大日本地誌大系第31巻 120コマ目

天正の頃(1573年~1593年)河原田盛次、芦名家に従て伊南の地を領し、館をここに築て居所とせし(ゆえ)伊南町と称す。後に青柳村に城郭を構て伊達家を拒みしが敵退て再び還住す。因て今の名に改めしとぞ。
昔は毎月6度の市の日あり。今は12月22日・27日の両日のみなり。

府城の西南に当り行程19里。
家数50軒、東西1町・南北4町。
町北は山に倚り、西は檜枝岐川に近く、南北田圃(たんぼ)なり。
村中に官より令せらるる掟条目の制札を()く。

東1町多々石村の界に至る。その村まで1町30間。
西4町28間小塩村に界ひ檜枝岐川を限りとす。その村まで6町30間余。
南12町6間白沢村の界に至る。その村まで18町20間。
北14町18間木伏村の界に至る。その村まで18町20間。
また戌亥(北西)の方14町20間青柳村に界ひ檜枝岐川を限りとす。その村まで16町20間。

小名

道成(たうしやう)

本村の北1町にあり。
家数31軒、東西1町・南北2町。
東は山に倚り西は檜枝岐川に近く南北田圃なり。

山川

檜枝岐川(ひのえまたかわ)(伊南川)

俗に伊南川と云う。下同。
村西4町20間余にあり。
白沢村の境内より来り、北に流るること30町、木伏村の界に入る。
広30間。

小滝川(こたきかわ)

村西1町にあり。
多々石村の境内より来り、戌亥(北西)の方に流れ北に転じ、檜枝岐川に入る。
境内を流るること6町。
広7間。
「いはな」・鰥を産す。

関梁

橋3

一は村南1町小滝川に架す。長8間。
府下の通路丸木橋なり。
一は村西1町小滝川に架す。長8間。
一は村西4町檜枝岐川に架す。長12間。
共に村の通路丸木橋なり。

神社

鹿島神社

祭神 鹿島神?
相殿 伊勢宮
   稲荷神
   鹿島神
   祇園神
   権現
鎮座 不明
村南2町30間にあり。
鳥居あり。和泉田組界村渡部信濃が司なり。

愛宕神社

祭神 愛宕神?
相殿 伊勢宮
   稲荷神
   住吉神
鎮座 不明
村東3町10間にあり。
鳥居あり。渡部信濃が司なり。

羽黒神社

祭神 羽黒神?
勧請 不明
村より丑寅(北東)の方3町余にあり。
鳥居あり。修験法導院司る。

富士神社

祭神 富士神?
鎮座 不明
村の辰巳(南東)の方5町余にあり。
鳥居あり。法導院これを司る。

山神社

祭神 山神?
創建 不明
村より辰巳(南東)の方4町30間にあり。
鳥居あり。村民の持なり。

寺院

照国寺

小名道成にあり。
金光山と號す。近江国蓮華寺の末山、時宗なり。
何の頃にか河原田氏の祖草創し、蓮華寺の徒一阿という僧を請て住せしめ、寺産許多(あまた)を寄付し、塔頭(たっちゅう)十余字ありてさばかりの梵字なりと云う。その後も河原田氏の臣・芳賀安房某と云うもの及びその支族年壇越(だんおつ)の因ありて什物(じゅうもつ)も多かりしが、天正18年(1590年)に兵燹(へいせん)に罹り、佛像及び寺宝(じほう)数箇を遺し余は(ことごと)く亡せしとぞ。寛文の頃(1661年~1673年)までは(なお)塔頭(たっちゅう)四字ありしと云う。

客殿

9間に7間。南向。
本尊弥陀、長3尺。
脇立観音・勢至共に長2尺、運慶作と云う。
本尊の背後に『嘉祿三年三月』(舊事雑考にはこの下に三月云云とあり。今は剥落して見えず)と書付あり。
※嘉祿三年=1227年

鐘樓門

客殿の南にあり。
3間四面。
金光山と云う額あり。風早前大納言(諱を伝えず)の筆なり。
鐘、径2尺5寸。『寛政七乙卯六月當山二十一世眞阿俊長再興』と彫付あり。
※寛政7年=1795年

鐘樓門の南にあり。
5間に2間半。

薬師堂

客殿の南にあり。
薬師像、長3尺。古佛なり。

熊野宮

薬師堂の南にあり。

天神社

客殿の丑寅(北東)の方にあり

石塔三基

共に客殿の戌亥(北西)の方にあり。
一は高9尺余、『浄光院賢阿普淸盛蓮大禪定門天正九辛巳三月二十八日』と彫付あり。河原田盛政と云う者の墓なりと云う。
一は高4尺、『覺阿淸圓信士覺阿妙圓信女天正十八年四月十五日』と彫付あり。何人なるを知らず。
一は高4尺余、『面阿見道信士慶長五子八月十二日』と彫付あり。渡部丹波守某と云う者の墓なりと云う。
共に後人の建てしものと見ゆ。
※天正9年=1581年、天正18年=1590年、慶長5年=1600年(庚子)

寶物

鉦鼓 1箇。径5寸6分。筑紫小入道作と彫付けあり。
六字名號 1枚。親鸞筆。
三尊弥陀掛物 1幅。恵心筆。
末廣 1本。河原田氏の寄付という。

善導寺

村東1町にあり。
浄土宗成寶山と號す。
府下五之町高巖寺の末残なり。
慶長8年(1603年)廓譽と云う僧開基す。
本尊弥陀客殿に安ず。

虚空蔵堂

境内にあり。

観音堂

虚空蔵堂の辰巳(南東)の方にあり。

法導院

本山派の修験なり。開基の年代詳ならず。
昔は龍水山萬福寺と號せしとぞ。
天文の頃(1532年~1555年)來宥と云う者中興す。
現住宥玄は十世の孫なり

墳墓

石塔

村北にあり。
高2尺余『樂阿彌陀佛悅全文祿元壬辰天五月八日』と彫付あり。
小沼外記某と云う者の墓なりと云う。
後人の建しものと見ゆ。
※文禄元年=1593年

古蹟

館跡3

一は30間四方西(にし)館と云う。
一は36間四方(ひがし)館と云う。
共に村西2町計にあり。
土居堀の形存す。河原田盛次住せり。
今傍の田圃(たんぼ)横町(よこまち)石原町(いしはらまち)・北小路・殿小路等の字あり。

一は村東1町にあり。
東西45間・南北38間。
小沼柵と云う。
永禄中(1558年~1570年)芳賀大炊某と云う者住せりといへども詳ならず。

人物

河原田治部少輔盛次

藤氏にて結城七郎朝光二世の孫長廣と云う者。下野国河原田郷に居住せしより初て河原田と称し、十一世にして盛次に至りしと云う。世世葦名氏に従い伊南の地を領せり。
天正17年(1589年)伊達氏会津を襲いし時、盛次は檜原口の警固として大塩村にありしが、6月5日伊達勢既に磨上原の方に寄来ると聞き引返して彼地に向い(わずか)の手勢をもて合戦し、味方(そう)敗軍となり力なく引退き黒川の西なる中荒井村に留まりその動静を(うかが)いしに、義廣遂に佐竹氏に走り政宗黒川の城に入り、田島の城主長沼盛秀を始め芦名累代の家臣多くは伊達氏に属せしかば、盛次慷慨(こうがい)に堪えず、一先領地に引籠り、再び芦名恢復(かいふく)の功をはからんとて高田村の邊まで引取りしに思う仔細やありけん。伊南源助政信と云う郎等を使として一戦を挑しに政宗河原田が義気を感じ、(かつ)窮寇(きゅうこう)を追て士卒を損ぜんことを(おもんぱか)慰諭(いゆ)して源助を(かえ)しければ盛次遂に久川城(青柳村)に楯籠る。この時盛秀使をもて伊達家に降らんことを勧む。河原田大いに怒り盛秀が不義をせめ使いを(かえ)す。盛秀も怒り政宗にかくと告げ加勢を請両度まで攻寄けれども河原田よく防守せり。折しも積雪路を埋み師を出しがたければ盛秀しばし攻来ることを得ざれども、政宗が大軍固より敵すべきにはあらざれば郎等主膳入道玄佐と云う者を(ひそ)かに伏見に上せ、石田三成に因て仔細を披露せしに豊臣家やがて小田原の北條を征伐し、その後政宗が罪を(あざな)さるべしと玄佐(かえ)(つぶ)さに語りければ盛次力を得て(いよいよ)その志を堅せり。黒川よりは間者を入れてさまざまに誘えしかば盛次が家の子郎等多くは内々政宗に興せしに伊南源助が智略を以て隱謀の人々より質を出させ盛次が嫡子龜坊とて13歳なるを添え上杉景勝の方に遣し援兵をこい辛うじて城を守れり。然れども梁取を始め和泉田小林等残らず攻落されしかば危急(ききゅう)旦夕(たんせき)に迫れり。翌年太閤小田原に至り政宗の罪を正し会津仙道を收公(しゅうこう)せらる。盛次ここに至て初て眉を開しとぞ。時に太閤会津に移るべきより聞えければ盛次先立ちて所領を打起ち下野国宇都宮まで出向いけるが、(ゆえ)ありて謁見を遂げず空く皈郷(ききょう)し日を経て病で卒すと云う。

古文書2通あり(前の1通は法導院所蔵し後の1通は落合村長次右衛門が家に伝う)
因に載す(※略)