会津郡古町組木伏村

陸奥国 会津郡 古町組 木伏(きふし)
大日本地誌大系第31巻 122コマ目

府城の西南に当り行程18里23町余。
家数48軒、東西2町・南北4町6間、東は山に倚り西は檜枝岐川に近く南北田圃(たんぼ)なり。

東1里3町入小屋村の山に界ふ。
西5町大橋村に界ひ檜枝岐川を限りとす。
南4町2間古町村の山界に至る。その村まで18町20間。
北2町40間水根沢村の界に至る。その村まで2町40間。
また
未申(南西)の方1里の方5町青柳村の界に至る。その村まで9町。

山川

唐倉(からくら)

※国立公文書館「新編会津風土記43」より唐倉山図

村の辰巳(南東)の方31町余にあり、登ること13町計。
さまでの高山ならざれども、勢最嶮しく峯を伝ひてわづかに1路を通ず。
その間許多(あまた)の奇岩あり。佳観(かかん)とす。
麓より登ること8町余に鑑岩(かがみいわ)と云あり。その左に(そばだ)つを裸岩(はだかいわ)という。
鑑岩の上1町30間余に石柱(いしばしら)と称する岩あり。方4尺計にて長4間より5,6間計の石30余枚あり。屋材を架するに似たり、故に名けり。昔は数も多かりしが何の頃にか地震のためその半を崩せりと云う。
ここより上に烏帽子(えぼし)屏風(びやうぶ)手掛(てかけ)衣掛(ころもかけ)等の怪岩往々に列峙す。

衣掛岩より1町余にして頂上に至る。明神岩あり。昔唐倉明神鎮座ありし所ゆえこの名遺れり。
冬山満山雪みつれどもこの(いただき)のみ風烈しく積もることなし。土人は社跡の霊なりとて崇敬す。
また明神岩より左右の下りに数十の怪石1町計の間に布置し累々として相()れり。南を日光岩と云い北を月光岩と称す。
ここより北に望めば飯豊・磐梯島の高山遠空に浮かび、南に(かえりみ)れば燧嶽・駒嶽近く衆峯に秀で眺望広し。
この山東北の方入小屋村に属す。

檜枝岐川

村西5町にあり。
古町村の境内より来り、北に流るること15町40間余、大新田村の界に入る。

八窪(やくぼ)

村より巳午(南南東~南の間)の方6町にあり。
源は境内の山中より出て、西に流るること1里18町檜枝岐川に入る。
広2間。

原野

(まぐさ)

村西2町にあり。
東西1町30間余・南北2町10間余。

関梁

村南6町、府下の通路八窪沢に架す。
長8間、丸木橋なり。

神社

八龍神社

祭神 八龍神?
相殿 八龍神
鎮座 不明
村中にあり。
石鳥居あり。界村渡部信濃が司なり。

天神社

祭神 天神?
鎮座 不明
村の巳午(南南東~南の間)の方20間にあり。
石鳥居あり。修験蓮華院司なり。

愛宕神社

祭神 愛宕神?
鎮座 不明
村より卯辰(東~東南東の間)の方19町にあり。
村民の持なり。

寺院

長専寺

村西にあり。
浄土宗大寶山と號す。五之町高巖寺の末山なり。
開基詳ならず。旧太子守宗なり。
寛永17年(1640年)善札という僧改て古町村善導寺の末山浄土宗となり、後また高巖寺に隷す。
本尊弥陀客殿に安ず。

薬師堂

村中にあり。
草創の年代詳ならず。
村民の持なり。

古蹟

館跡

村中にあり。
東西23間・南北33間。土居堀の形存す。
天正中(1573年~1593年)菊池紀伊守某と云う者住せしと云う。


参照


外部リンク等


木伏村由来

(奥会津南郷の民俗より)
木伏村の発興をたずねると、人皇六七代三条院の御宇長和二癸丑年(1013年)農民伴内という者、唐倉山南の沢に小屋を作り、焼畑をおこして耕作していたが、その後二六年を経て長暦三年(1039年)の秋、今の木伏部落へ引越したのに始まる。
この伴内が、姓民は人皇五一代平城天王の御孫阿保親王を父とし、人皇五〇代桓武天皇の媛君伊登内親王を母として、淳和天皇の天長二年(825年)八月七日に生まれ、翌三年阿保親王の表を奉り、在原ノ朝臣の姓を賜り、仁明天皇の承和七年(840年)三月一一日御齢一六歳で元服し、陽成院の元慶元年(877年)に右近衛中将に任ぜられ、在原の五男の故に在五中将と申し上げ、後に閑麗翁と呼ばれた祖先に遡る。
この在五中将の長男が、出生の地大和国石上で武家に下り、漂泊して唐倉山麓にたどり着き、在原氏を変え在本伴内と名乗って、仁和元年(885年)から連綿その子孫が伴内を襲名、長暦三年(1039年)まで一五〇余年もの永い間この山中に住まいしていた。家族もふえ、いよいよ土地が狭くなったので、この中興の祖伴内は、意を決して長暦三年の秋、山から下り、伊南川近く平な地所を見立て、仮屋を作り農地をひらいた。ここが現在の木伏部落である。
伴内が子孫ゆくゆく繁昌し、家数も増して、ヤスヤスと村元ができたので安田村と名づけた。新村開拓より一三〇年を経て、嘉応元年(1169年)のころ、四代の末孫伴内久尊の男子八人あり、氏神を勧請して八王神と崇め、手力男尊を祀る。このころから八龍神と唱えられたが、明治五壬申年一〇月一五日於加美神社と改められた。
治承四年(1181年)七月、高倉宮は宇治の平等院で敗戦し、田原又太郎忠綱の情により、この地に行幸、唐倉山へ参詣遊ばされた時、近隣の人民が集い、山路の中程坂下という所に大木を切り伏せ、逆茂木など引き、木戸を結い守りを固めたありさまを、宮様が何事かと問い給うに「万一、里より狼藉者あれば、ここで防戦の覚悟だ」とお答えしたところ、「御感斜ならずこの力量のほど武士が戦場に進んで分捕高名にも勝る大計である」と賞讃遊ばされ、直ちに安田村を改めて、木伏村と称えることとなった。この名は、木武士という意である。今この木戸を結った所を宇木戸場と名づけている。

虫送り・ねずみ送り

(奥会津南郷の民俗・年中行事より)

虫送り
木伏や鴇巣などでは九月中旬に「虫送り」行事があった。部落で日を定め、麻ガラや山ぶどうのつるでくるめ、四尺ぐらいのタイマツをめいめいが準備し、夕食後、大人も子どもも大勢集まり、タイマツを赤々ともやし、空かんなどを叩き、鴇巣などでは鉦太鼓を打ちならしながら川下の隣村境まで田畑の虫送りをする。
隣村ではこれを受けとるまいとして直ちにこれもタイマツを明かして賑やかに川下の隣村境まで送る。次の村でも同じことをやる。
このときの唱えごとなどもあったと思う。村境でタイマツを川に流す。

ねずみ送り
時期は盆の前後、刻限は夕食後。木伏、和泉田などではねずみ送りといって、村中でブリキかんなどを叩きながら、ちょうちんをめいめいがもって、川下の村界までねり歩いて送る。隣村でも同じく川下に送る。
そのときの唱えごとは「はやるねずみ送れよ、逃げねえと尻さニシン突っ込むぞ、あとから、くま猫けしかけんぞ」とわめきながら、長いちょうちん行列が村境まで続く。(大正10年ころ廃絶)
最終更新:2025年09月02日 20:11
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