府城の南に当り、行程8里。
家数72軒、東西40間・南北3町28間。
四方田圃にて西は山に近し。
下野街道駅所なり。
村中に官より令せらるる掟徐目の制札あり。
倉谷村駅より32町ここに継ぎ、ここより1里34町
田島組田島村駅に継ぐ。
東4町4間・北5町28間、共に
刈合村の界に至る。その村は丑寅(北東)に当り9町。
西7町8間・南3町10間、共に
上添・小山・倉村・岩本四ヶ村の地に界ふ。上添村は未(南南西)に当り5町。
また
辰巳(南東)の方3町40間
松川組桃曽根村に界ひ大川を限りとす。その村まで9町。
山川
太平山
村より戌亥(北西)の方9町にあり。
西北は
志源行村と峯を界ふ。
大川
村より辰巳(南東)の方3町20間にあり。
上添村の方より来り、東北に流るること12町
刈合村の界に入る。
広15間。
水利
五箇村堰
神社
八幡宮
村北3町余、山腰にあり。
寛文中(1661年~1673年)まで『弘治二年八月二十八日南山奈良原村八幡宮草創大檀那藤原朝臣成吉』と記せし棟札ありしとぞ。今は失ふ。(弘治2年:1556年)
鳥居幣殿拝殿あり。
神職 星和泉
何の頃にか奥太某という者当社の神職となる。今の和泉喜栄は6世の孫なりという。
稲荷神社
村西1町50間にあり。
鳥居あり。星和泉これを司る。
寺院
圓福寺
村中にあり。
光林山と號す。郭内延壽寺の末寺天台宗なり。
開基詳ならず。
本尊弥陀客殿に安ず。
墳墓
西城戸塚
村より亥(北北西)の方7町計山麓にあり。
この所の字を奥田という。
近頃まで塚上に五輪ありしという。
この傍に老桜木あり。
相傅ふ。文治5年(1189年)9月、西木戸太郎国衡が首をこの地に棄てしを里民埋めしと伝える。
古跡
館跡
村より戌亥(北西)の方30間にあり。
東西50間・南北32間。
天正中(1573年~1593年)長沼氏の臣星玄蕃某という者住せしといい伝う。
土居の形なお存す。
補足:西木戸太郎国衡
西木戸太郎国衡とは奥州藤原家、藤原秀衡の長男である
藤原国衡の事。西木戸塚の伝承は時期的に奥州合戦
阿津賀志山の戦い(8月8日)の後か?
最終更新:2025年06月11日 21:14