府城の西南に当り行程20里。
家数29軒、東西3町40間・南北50間、北は檜枝岐川に傍ひ三方に田圃あり。
東17間・南3町、共に
富山村の界に至る。その村は辰巳(南東)に当り20間余。
西8町
和泉田村の界に至る。その村は申(西南西)に当り6町。
北20町
布沢村の山に界ふ。
また戌亥(北西)の方13町14間
梁取村の界に至る。その村まで21町10間余。
この村、承應中(1652年~1655年)観音寺の堂宇炎燒せし。
外は火災ありしこと伝えずと云う。
小名
下村
本村の戌亥の方1町にあり。
家数17軒、東西3町・南北30間。
西南は檜枝岐川に傍ひ東北に田畠あり。
山川
大曽祢山
村北にあり。
頂まで20町。北は布沢村に属し峯を界とす。
雑木多し。
檜枝岐川
村の未申(南西)の方3町にあり。
富山村の境内より来り、戌亥(北西)の方に流るること20町
梁取村の界に入る。
沼
村の丑寅(北東)の方14町、山奥にあり。
清水沼と云う。
周5町30間。
末は小山沢に合す。
旱歳に雨を祈る所と云う。
小山沢
村の丑寅(北東)の方2町にあり。
源は丑寅の山中より発し、二岐と云う所にて処々の渓水合り、未申(南西)の方に流れ西に折れて檜枝岐川に注ぐ。
広2間。
水源よりここに至るまで凡19町。
この水を引き田地の養水とす。
神社
熊野宮
村の丑寅(北東)の方2町30間にあり。
鳥居あり。界村渡部信濃が司なり。
鬼渡神社
小名下村の丑寅(北東)の方1町山麓にあり。
鳥居あり。観音寺司なり。
寺院
観音寺
小名下村の丑寅(北東)の方20間にあり。
真言宗南照山と號す。高野山西南院の末山なり。開基詳ならず。
天正中(1573年~1593年)杲榮と云う僧住せしと云う。
本尊大日客殿に安ず。また鐘一口あり。径2尺5分。『享保七壬寅年四月中興七世法印源察敬白』と彫付あり。
※享保7年=1722年
寶物
正観音木像 1軀
座像、長9寸余。
『奥州伊保郷下山村願主常金妙巡永正十一甲戌(以下の文字分明ならず)』と書付あり。
(永正11年=1514年)
不動石像 1軀
長7寸。
愛染明王 1軀
長3寸、自然石。
大黒石像 1軀
長5寸、同上。
古蹟
館跡
村より丑寅(北東)の方16町にあり。
東西28間・南北23間。
何人の築しことを知らず。
天正の頃(1573年~1593年)目黒小三郎某という者住せりといい伝ふれども詳ならず。
経塚
小名下村にあり。
高5尺・周8間。
天和2年(1682年)水災を患て観音寺の僧鏡鑁をして一石一字を書寫さしめ埋めしと云う。
参照
外部リンク等
村名について
孝徳天皇の代、大化元年(645)八月詔を下されて民の人口を調べ、国郡庄及び村の境界をつまびらかにして行政区画を一定し里戸の編成を立て、班田収授法を立て入口に比例して耕地を分配することとした。この時から、下山村の村名は記録にのぼったので、特に下山村と称すべきいい伝いもない、よってこの班田収授の法が行われた大化元年を以て下山村の紀元となすと「下山村村名紀元及び参考古記」に記されている。
明治22年(1889)町村制施行により、片貝村・和泉田村・界村・下山村が合併し南会津郡富田村が発足。
※以降は
会津郡和泉田組片貝村の記載を参照
神社
旧祭礼御当屋 四月二十九日
下山では、現在の鬼渡神社以前に鹿島神社があり沢口に熊野神社があった。大正十年、社殿を新築し鬼渡神社と改められた。元の祭礼は陰暦七月七日でこの日の氏子総代・お党屋五人が集まり神事の準備をされて鬼渡神社で祭りの神事が執り行われ、終わってから区長宅で直会になる。このころは夏蚕の忙しい最中でしたから、後年になってこれを避けてまだ農作業の忙しくならない新五月節句に行われたが、昭和になって天皇誕生日に行うようになり、直会も集会所で行うようになった。
キョウジ
治承四年戦いに敗れて越後へ落ちのびられる折、けやき坂と称すこの場所で休まれた高倉宮以仁王が京都の岪に似るところより京路岪と称され以後この名がついたという。
その他
最終更新:2025年09月06日 16:31