浄土衆京師智恩院の末寺なり。
山號を盛道山という。
初め岌傳という僧福田無量寺に住し
斗藪の志あり。跡を
晦してこの地に来り、茅庵を結び念佛
三昧に入って歳月を送る。その徒弟岌天師を尋ねてここに来り、文明6年(1474年)にこの寺を建立せり。
仍て岌傳を草創として岌天を開基とせり。
大永2年(1522年)葦名遠江守盛舜その父修理大夫盛高の位牌を当山に置て菩提所とし寺領を付す。当寺山號を成道といいしを、これより改めて盛道に作るという。
また当寺に黒谷法然の木像あり。相伝う、陸奥国司藤原秀衡法然に帰依し謁見せんことを願うとも路へだたり、到るべき
由なければその真像を模し遥かに拝せんことを請う。法然鏡に向い佛工をしてその真像を写さしめ奥に赴かしむ。像を負者会津神指原(
高久組神指村の地なり)に至り
俄に重くして移すこと
能わず、
仍てここに一宇を建立し來迎院と號けその像を安置す。今法然原と称する所この地なり。
その後洛陽百萬遍智恩寺住持岌州(岌州が事河沼郡青津組青木村の条下に詳なり)当寺に
寓し來迎院の荒廃をうれい法然の像を請て当寺に移し七日の法談をなし再び洛に登れり。
天正巳丑の乱(1589年)に葦名氏亡て後寺産絶たり。
寛永4年(1627年)宰相蒲生忠郷を当寺に葬り影堂を建て見樹院と諡す。
蒲生氏亡て加藤成明のとき見樹院香花の為に寺料100石を付す。
その後台徳院殿
薨御の時も当寺に於て千部の浄経を修し大法会を行えり。
今に
猶寺産100石を付し当寺に隷せる道場、封内28ヶ寺に及べり。
制札
門外西の方にあり。
総門
3間半に3間
客殿
11間に10間。南向き。
本尊弥陀の坐像、運慶作、長3尺3寸。
脇立観音勢至、定朝作の立像各長3尺5寸。
(
舊事雑考元久元年(1204年)の記に、この三尊の像もと萱津村蓮華寺にありし由なり。按ずるに河沼郡牛沢組上萱津村昔は萱津村と言いし由見ゆ。同組に中茅津あり。また坂下組に下茅津村あれども皆昔蓮華寺といい寺ありし事を伝えず)
また葦名盛高の位牌を安ず。『常勝院殿天祥麟公』と記せり。年々盂蘭盆の時
香奠を供す。
庫裏
12間に5間。
鐘楼
客殿の東南にあり。
懸る所の鐘は延寶中(1673年~1681年)改め鑄所なり。
径2尺5寸。その銘左の如し。
(※略)
忠郷墓
客殿の北にあり。
封土のほとりに渠を繞らし上に杉3株あり。枝葉繁り森々たり。
忠郷慶長17年(1612年)9月封をつき、寛永3年(1626年)参議に任ぜられ、同4月(1627年)痘瘡を患て卒す。
年25同23日当寺に葬る。法號を見樹院得譽玄光という(舊事雑考に玄光を元光に作る)
同影堂
総門を入て右にあり。
束帯の木像を安ず。
享保10年(1725年)に明年忠郷百回忌のためこの像を作るという。
前に五輪塔あり。高2間5尺、『寛永第四稔丁卯正月施主敬白』と彫付あり。その余の文字剥落して見えず。
また年々盂蘭盆に香奠を供す。
観音堂
境内にあり。
塗籠にて3間に2間半。
法然の木像をもここに安ず。
弁天堂
同上
稲荷神社
この町より移せり
塔頭
見樹院
総門を入って右にあり。
往年火災に罹り今は3間に2間の假屋なり。
寶珠院
見樹院の北にあり。
火災の後再建成らず。
伝法院
寶珠院の東にあり
別院と称す。同上。
寶物
文殊画像
1幅。唐筆なり
佛画
5幅。
2幅は二十五菩薩と十三佛の画。
2幅は弥陀及び釈迦の像。
1幅は善導圓院の図。
共に古筆なり。
菅天神画像
1幅。自画といい伝う。
山水墨画
3幅。2幅は東坡筆といい伝う。
花鳥掛物
2幅。對舜擧筆
人物画
1幅。古筆なり。剥落してその状分明ならず。
和歌。
1幅。忠郷の書なり。
忠郷肖像
1幅。
贈序
1遍。その文如左
(※略)
寄付状
3通。その文如左
(※略)