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会津郡高久組神指村

陸奥国 会津郡 高久組 神指(かうざし)
大日本地誌大系第31巻 27コマ目

昔融大臣に仕えし秦何某という者(ゆえ)ありてこの地に来り。住所を定めんことを山王権現に祈りしに、一老翁夢中にあらはれ指示て言う。ここより北の林中に異香(いきょう)*1の樹あるべし、これ村民を開き耕耘(こううん)の起すべき地なり、といい終わて夢さめぬ。行て見るに果て異香樹あり。よりて田圃(たんぼ)を開き一村をたつ。故に初めは香指村と書しに何の頃よりか今の字に改めしといい伝う。今も田圃の字に山王権鳥居田などいう所あり。
この村もと上神指より亥(北北西)の方6町にあり、正保3年(1646年)3区に分る。

府城の北西に当り行程1里。
南を上神指という。
家数28軒、東西2町10間・南北2町15間、四方田圃にて西は鶴沼川に近し。

ここより2町10間北を東神指という。
家数27軒(内2軒上神指の民居に雑はる)、東西55間・南北2町20間、四方田圃なり。

ここより8町30間余戌(西北西)の方を下神指(寛文の頃(1661年~1673年)までは中丸神指という)という。
家数17軒、東西1町18間・南北1町32間、西は鶴沼川に()ひ三方田圃なり。

東5町10間中地村の界に至る。その村まで9町30間。
西11町6間本郡中荒井組真渡村に界ふ。
南5町12間如来堂村の界に至る。その村まで7町30間余。
北は村際にて横沼村に界ふ。その村まで40間余。
また
亥(北北西)の方6町32間高久村の界に至る。その村まで8町30間余。

端村

横沼

下神指の丑(北北東)の方1町20間余にあり。
家数3軒、東西35間・南北20間。
東南は田圃にて、西北は横沼村に続く。

榎壇(えのきだん)新田

東神指の寅(東北東)の方2町10間にあり。
家数17軒、東西48間・南北1町12間、越後街道の左右にあり四方田圃なり。
寛永2年(1625年)開けり。
この村の北壇上に榎の古木あり、因て名けり。

山川

鶴沼川

俗に大川という。下同
上神指より申(西南西)の方3町50間にあり。
本郡中荒井組蟹川村の境内より来り、北に流れ真渡村の界に入る。
この村の境内を流ること24町30間。

黒川

端村榎壇新田の東2町にあり。
中地村の境内より来り、北に流るること5町10間余、上吉田村の界に入る。

水利

神指(かうざし)

上神指の申(西南西)の方にて鶴沼川を引き数派となり田地に灌ぐ。

高久堰

上神指の申(西南西)の方にて鶴沼川を引き高久村の方に注ぐ。

神社

住吉神社

祭神 住吉神?
鎮座 不明
東神指の東1町30間余にあり。
昔は社頭もやや大なりしが、漸々に破壊して今は小社となれり。
鳥居拝殿あり。正法寺司る

稲荷神社

祭神 稲荷神?
勧請 不明
上神指の亥(北北西)の方3町20間にあり。
鳥居あり。照明寺司なり

寺院

極楽寺

下神指にあり。
蓮台山と号す。府下道場小路の末寺真言宗なり。開基の年月を詳にせず。
慶長の初め(1596年~)火災に罹り院宇燒亡す。
後何の頃にか春覺という僧住してより相続いて今に至る。
本尊大日客殿に安ず。

漏泉碑

境内にあり。高5尺5寸余。
享和2年(1802年)洪水ありて居民の墓を決し、髑髏許多(あまた)を漂流せり。水復して後(もと)め聚めてここに埋め、府金を出し碑を立てこれを表せしむ。篆額(てんがく)に漏泉碑の三字、その下に左の運を彫れり。

正法寺

東神指にあり。
吉禮山と号す。真言宗なり。草創の初を伝えず。
昔は住吉神社の社僧なりしという。元和中(1615年~1624年)府下大町弥勒寺の末寺となりし。
本尊弥陀客殿に安ず。

照明寺

上神指にあり。
曹洞宗福聚山と号す。本郡南青木組小田村寶積寺の末山なり。
開基詳ならず。
慶長元年(1596年)雲室という僧中興せり。
客殿に観音を安じ本尊とす。

文殊堂

客殿の西にあり。

墳墓

石塔

村西2町計にあり。
高2尺。
『法德女天正十五丁亥六月十二日死 延享二丑年迄百五十九年』と彫付あり。
皆川掃部介某という者の母の墓なりという。
※天正15年=1587年、延享2年=1745年。159歳??

古蹟

いたみ堂

上神指の北6町余にあり。何の頃にか彼堂社と出羽国米沢下永井小松という処に移し「御いたみ」と云いしとぞ。ここに高8尺余・周13間の檀あり。何の謂れを知らず。陶器のかけたるを得ることあり。
この南に八坊(はりはう)趾という字あり。これも昔堂社ありし時坊中八宇ありし(ゆえ)によれりという。

法然(ほうねん)

東神指の東にあり。
数村に亘りて濶狭量るべからず。

相伝う。
藤原秀衡深く法然を慕しかば、法然自らその像を()せしめ相賜りしに、負者ここにいたりて奇特のことありければ、遂に一宇を建立し来迎院と号しこの像を安置せり。その後衰廃せしを、永禄中(1558年~1570年)京師百萬遍の住僧岌州(ここ)に来り時、盛氏に告て像を府下五之町高巌寺に移せり(高巌寺の条下を併見るべし)。

城跡

上神指の辰巳(南東)の法2町10間にあり。
この城は上杉景勝慶長3年(1598年)にこの地に封ぜられ府城を移さんとて、始は河沼郡北田の(あと)に築かんとせしが地勢心に(かな)はざりしにや。同5年(1600年)2月10日よりこの地を経営せり。総奉行直江山城守、小奉行小国但馬・甘糟備後・山田喜右衛門・清水権右衛門、割奉行島倉孫左衛門、材木奉行満願寺仙右衛門等その事を任じ、本丸は3月18日より6月朔日まで日数72日の内に家中の人夫を以てこれを築き、二丸は5月10日より6月朔日まで日数20日の内にに越後・仙道・米沢及び会津4郡の人夫120万余の着到にて(とりで)池の形大概備われり。この時慶山村の山中より大石を切出し人夫立ち並び手繰にしてここに運送せしとぞ。
然るに景勝陰謀の聞えあり。東照宮小山まで御動座あればその功を果さざりしという。
いまは田畠となれどもその構(なお)残れり。

本丸
東西1町40間・南北2町50間。
壘趾、10間・高3丈5尺・周9町。
回に堀あり。広23間。
東西3方に口あり。
四方に石垣もありしが、今は半崩れぬ。

二丸
東西4町50間・南北4町50間。
壘趾、9丈・高2丈5尺・周16町14間。
堀、広20間。
四方に門を構えし所ありしが、寛永中(1624年~1645年)如来堂村この城跡西南の隅に移り土居を(こぼ)ち村居とせし故、東北はその形あれども西南は欠て土居形なり。

今百姓作兵衛という者の家に当時石工の宿せしとて竹籠1箇・大網13尋程あり。外に竹竿数本、首に孔を穿ち麻索を引遠し3又とし5寸釘を屈て(かぎ)とせしものあり。炊器を懸けて食を作りしものという。
ここの堀より(えび)を産す。美味なり。土人景勝と唱ふ。

さきに景勝御征伐の事起り御馬を出されし頃までも(なお)普請の最中にて、萬願寺仙右衛門柿色の手拭をもて鉢巻し毎日馬上にて七日町を通り普請の事を沙汰し府下の匇劇(そうげき)大かたならず。されば士民等の言にも会津退治御諱が江戸まで来なされたと言えども(ここ)へ来なされたらその(まま)をつころされなさるべいとて女童まで騒ぐ気色もなかりしとぞ。
この頃のざれ言に、また萬願寺仙右衛門殿の二十ばたらき大八日(おおはちにち)かとて笑いしことあり。これは初め景勝関東勢を防んため人数を駆催(かけもよお)して、この二十八日には大働あるべしと言うを言誤りて、二十ばたらき大八日に候間(そうろうあいだ)鑓ない人は借てもおでやれ、とふれ廻りける(ゆえ)なりと民間に記せしものあれば伝わるままにここに付す。


外部リンク等



村名について

幕末まで(1868年)、北会津郡下神指村、東神指村、上神指村
明治8年(1875年)、横沼村・下神指村・東神指村・上神指村が合併し北四合村が発足。
明治22年(1889年)、高瀬村・黒川村・南四合村・中四合村・北四合村・高久村が合併し神指村が発足。
明治32年(1899年)、若松町が市制施行して若松市となり、郡より離脱。
昭和30年(1955年)、門田村・湊村・一箕村・高野村・神指村・大戸村・東山村が若松市に編入。市名を会津若松市に変更。

神指ムラの名の起こり

(会津の伝説より)
貞観(859年~877年)のころであろうか、後に左大臣になった源融(みなもとのとおる)は陸奥出羽の按察使(あぜち)に任じられ(あずま)くだりをしたと伝えられ、福島市の信夫文字摺にちなむ歌が、河原左大臣の名で小倉百人一首に入っている。
さてこの大臣に仕えておった(はた)という人が、何かわけがあって越後路より会津の地にやってきた。そして安住の地を求めあちこち尋ね歩き。日頃信心している山王権現様にお祈りをした。すると一人の老人が現れ、北の方を指して、
「これよりさき、林の中に特別に普通の木とはちがった香ばしい木がある。そこが(なんじ)の求めておった土地である。行って開き村を作りなさい」
といわれるや姿を消してしまった。
そこで彼は行ってみると、果たせるかな中国の伝説に出てくるような何ともいえない良い匂いの木があった。そこで「これはまことによいところだ」と神の導きに感じ、山王社を建て、田畑を開き村を作ったという。そこでこの村は香指(こうざし)ムラといい、後に神指と書くようになった。その後、村が大きくなり上神指、東神指、下神指と三つに分かれ、端村(はむら)に横沼、(えのき)壇新田ができた。
上神指の南方の神指原は上杉景勝が神指城を作ったところ、また東神指の法然原は法然上人にまつわる伝説の地である。

法然原

法然上人休息跡より)
場所 国道49号通、榎壇村
南面 碑高:115cm 中巾:31cm
往古、奥州国平泉に豪勢盛んでいた時、藤原泰平(泰衡? 本書では秀衡と記載)が京都におられた、法然上人の教導に寄興(與?)された。余りに遠地のため上人の御姿を希望された。その姿を上人自ら木彫りされて、運んで漸く会津に入る。榎木壇は往古、大木の榎木があったのでその地名が残っている。ここで榎木壇で休息して再び運ばんとしたが動かない。上人が此処に居住したいのだと思い、村人に依頼しお堂を創建して祀った。
お堂は来行院(来迎院?)といい、その院地を法然原という。
その後、上人は若松五ノ町高巌寺に移祭され、現在も本堂の格納壇にまつられてある。

神指城跡

※写真:日本100名城制覇より



蛇足

二十八日大働あるべし
二十働大八日あるべし
最終更新:2025年12月05日 21:03

*1 良い香り