会津郡南青木組院内村

陸奥国 会津郡 南青木組 院内(いんない)
大日本地誌大系第31巻 62コマ目

昔羽黒神社の別当東光寺の院内なりし(ゆえ)名くという。今竹林院・地蔵屋敷・大仙坊等唐の字遺れり。明暦3年(1657年)この村の山を開て当家の墓所とせしより、村中諸役を免じ墓を守り掃除の事を勤しむ。

府城の東に当り行程26町余。
家数40軒、東西1町17間・南北2町30間。
東北は山に倚り西南は黒川に()ふ。

東1里計原組赤井村の山に界ふ。
西7町・南6町、共に小田村の界に至る。その村は西に当り12町。
戌亥(北西)の方3町19間天寧村の界に至る。その村まで4町20間。
また辰(東南東)の方3町25間湯本村の界に至る。その村まで7町20間。

山川

院内山

村東にあり。
明暦3年(1657年)肥後守正之長子長門守正頼逝せし時、正之が命に因てこの山を開いて当家代々の墓所とす。
寛文12年(1672年)筑前守正経命じて新堰を()り新田2町余を闢き長く墓田とし、享保14年(1729年)墓山の界域を定め東西2ヶ所に石を立て界を表せり。
東西300間・南北149間。
この山高からずといえども満山松樹生茂り蒼畑欝々として他山と異せり。

冬坂峠(ふゆさかとおげ)

村東にあり。
登ること16町、ここを越て原組原村にゆく。路最も嶮し。旧背炙(せなかあふり)とて白川に往く街道なり。加藤氏の時(しばしば)火災ありければ今の名に改め滝沢坂の道を開きしとぞ。今は径路となる。豊臣太閤下向の時この峠に茶屋をかけて憩はれしという(原村の条下を併見るべし)。
※補足:原組側の冬坂峠の記述は原村ではなく上馬渡村にあります。

天神石

村より辰(東南東)の方3町湯本村にゆく路の傍にあり。
この石に水を注げば菅神の像顕はるという。羽黒山七石の一なりとぞ。

四寸石

村東30町山中にあり。
この石に4寸計の指の跡あり。故に名くという。空海が指の跡なりとぞ。

黒川

村より未申(南西)の方にあり。
湯本村の境内より来り戌亥(北西)の方に流るること7町、小田村の界に入る。

関梁

村西1町20間にあり。
長14間。小田村の通路黒川に架す土橋なり。

村より寅(東北東)の方7町にあり。
周3町40間。寛文12年(1672年)に築き山間を鑿てこの水を通し墓田の用水とす。
俗に大仙坊川と唱るは(昔この邊に大仙坊とて東光寺の坊中ありし(ゆえ)名くという)この堤の下流なり。

神社

稲荷神社

祭神 稲荷神?
相殿 稲荷神
   山神
   白山神
鎮座 不明
村中にあり。
鳥居あり。堤沢村湯田右膳が司なり。

墳墓

筑前守正経墓

村北にあり。
墓山の入口左に番所を設け右に盥水(かんすい)を設く。また府より殺生・伐木及び枝を打・下草を刈ることを禁ずる制札あり。こより東に升り左に分れ正経の墓に至る。
四方に柵木を(めぐ)らし門を設く。その奥に3間半に2間の拝殿あり。拝殿の北を墓とす。
石塔南面、竿石4尺2寸四面・高5尺7寸。笠石8尺5寸。四方3重の坐石あり、『鳳翔院殿』と楷書にて題す。四面に石の玉垣あり、周14間余。殁後佛道の法式に従い霊屋は北青木村建福寺にあり。
石塔の東南に碑石を建つ。竿石3尺5寸四面・高1丈8寸。笠石6尺四面・高5尺。坐石9尺6寸四面・高2尺6寸。楷書にて碑文を彫めり。その文如左(※略)

肥後守正容墓

正経墓の東北1町余にあり。
正容(かつ)徳翁(とこお)霊神の號を卜部家より受け、遺命によりて没後神道の祭儀に従い神璽(しんじ)は耶麻郡猪苗代土津神社の相殿とす。
石階を北に升り門に至る。これより東西北に(めぐ)り柵木あり。
拝殿9間に2間。その奥を松之魔といい3間に2間半。
墳墓の周90間。上に鎮石あり南に向う。竿石9尺3寸計四面・厚2尺2寸。坐石9尺四面・厚3尺。共に八角なり。『徳翁神墳鎮石』と篆書(てんしょ)にて題す。
この南に表石あり。竿石3尺2寸四面・高1丈。坐石8尺3寸四面・高3尺。楷書にて『會津中将正容之墓』と題す。
毎歳正忌の祭及び花祭あり。
碑石は拝殿の東南にあり。竿石5尺5寸四面・高1丈4尺9寸。亀跗長1丈5尺5寸・広1丈1尺・高4尺。北を首とす。篆額に『徳翁霊神碑』の5字あり。四面に楷書にて碑文を刻めり。その文如左(※略)。

肥後守容貞墓

正容墓にゆく道より右の方45間にあり。
石階と升て門あり。これより四方に柵木を(めぐ)らせり。
拝殿9間に2間。その奥を松之間といい3間に2間。
墳墓の周88間。上に鎮石あり南に向う。『土常神墳鎮石』と篆書にて題し、この南に表石あり楷書にて『會津少将容貞之墓』と題す。
毎歳正忌の祭また花祭あり。
また拝殿の東南に碑を建つ。鎮石及び表石碑石の制凡て上に同じ。碑文如左(※略)。

長門守正頼墓

正経墓に往く道より左に分れ29間にあり。
正頼は正之が嗣子にて正之に先て逝せり。土津神社の傍に祠を建て神璽(しんじ)を安ず。磐彦霊社と称す。
竿石高8尺9寸・径3尺に2尺9寸余、2重の坐石あり。『従四位侍従源正頼之墓』と題す。南面なり。
四方に石の玉垣あり。周18間。毎歳花祭あり。
碑陰の文如左(※略)

徳千代正房墓

正頼墓の西に並ぶ。
石塔南面、高7尺5寸・径3尺1寸に2尺3寸。3重の坐石あり。『玉麟院源正房墓』と題す。
位牌は建福寺の霊屋に安ず。
碑陰の文如左(※略)

肥後守容貞女墓

正房墓の北にあり。
石塔南面、高5尺・径2尺2寸に2尺1寸。2重の坐石あり。表に『蘂光院殿』と題す。諱は喜知という。
延亨4年(1747年)4月11日生れ、寛延4年(1751年)8月4日終れり。
位牌は建福寺の霊屋に安ず。

肥後守容貞生母本妙院墓

蘂光院墓の東にあり。
石塔南面、竿石3尺3寸四面・高4尺4寸5分。笠石6尺7寸四面・高4尺4寸。2重の坐石あり。表に『本妙院殿』と題す。諱を市という。塩見氏の女なり。
寶永7年(1710年)正月6日江戸に生まれ、享保17年(1732年)会津に終れり。
位牌は府下小田町浄光院の霊屋に安ず。

東市正正純墓

正経墓と正頼墓の間にあり。
竿石高7尺6寸・径3尺に2尺1寸。2重の坐石あり。南面にて、表に『源五位正純之墓』と題す。
祠を土津神社の側に建て石彦霊社と称す。毎歳花祭あり。碑陰の文如左(※略)

肥後守正容生保榮壽院墓

正純墓の西に並ぶ。
石塔南面、高7尺6寸5分・径3尺1寸に2尺2寸6分。2重の坐石あり。『榮壽院殿慶室玅長日善大姉』と題す。
位牌は浄光院の霊屋に安ず。碑陰の文如左(※略)

政五郎墓

正純墓の北にあり。
正容が第7子にて享保3年(1718年)5月28日生れ、同5年(1720年)2月16日終れり。
石塔南面、竿石2尺1寸5分四面・高4尺7寸。2重の坐石あり。『香厳院殿』と題す。
位牌は建福寺に安ず。

萬吉墓

政五郎墓の西に並ぶ。
正容が第6子にて正徳2年(1712年)4月12日生れ、享保元年(1716年)10月20日終れり。
石塔南面、寸尺上に同じ。『光明院殿』と題す。
位牌は浄光寺に安ず。

肥後守正之女墓

萬吉墓の西に並ぶ。
石塔南面、竿石2尺2寸2分四面・高3尺5寸5分。坐石あり。『詮量院妙浄』と題す。諱は三という。
延寶元年(1673年)正月5日生れ、その年4月17日終れり。
位牌は浄光寺に安ず。

肥後守正之侍妾墓

詮量院墓の西に並ぶ。
石塔南面、竿石3尺2寸四面・高3尺8寸、笠石3尺5寸四面・高5尺6寸5分。諱を鹽という。洛陽の産にて牛田氏の女なり。
慶安4年(1651年)6月27日会津に終わり徳性院と諡し浄光院に葬れり。
寛文4年(1664年)ここに改葬す。
位牌は浄光院にあり。

肥後守正之女墓

徳性院墓の西に並ぶ。
石塔南面、竿石3尺2寸5分四面・高及び笠石の寸尺上に同じ。諱を菊という。
正保2年(1646年)7月27日江戸芝邸に生れ、同4年(1647年)12月4日会津に終り浄光寺に葬れり。
法號『達性院殿妙了』という。
寛文4年(1664年)ここに改葬る。位牌は浄光寺に安ず。

筑前守正経女墓

達性院墓の西に並ぶ。
石塔南面、竿石2尺四面・高4尺6寸5分。2重の坐石あり。
『寂光院妙困』と題す。諱を諏訪という。
延寶(1676年)4年7月21日生れ、同5年(1677年)6月19日終れり。
位牌は浄光寺に安ず。

春之助墓

寂光院墓の西に並ぶ。
肥後守正容が子なり。
元禄10年(1697年)3月23日生れ、同11年(1698年)10月26日終れり。
石塔南面、竿石2尺1寸四面・高6寸5分。2重の坐石あり。
『玄光院殿浄性』と題す。
位牌は浄光寺に安ず。