蚕養國神社

陸奥国 若松 町分 東黒川 蚕養宮村 蚕養國神社(蠶養國神社)
大日本地誌大系第33巻 189コマ目
※国立公文書館デジタルアーカイブより

祭神 稚産霊神
創建 不明 神社由緒書によると弘仁2年(811年)
延喜式、陸奥国一・百座の一なり。
この社久しく頽顚し文献の徴すべきなければ履歴の詳なることを知らず。されども昔は社地も広大にして華構(かこう)壮麗(そうれい)をきはめ瑞籬(ずいり)玉垣等のまうけ巨宏にして、その礎石中古まで往々この邊の田圃(たんぼ)の間にありしという。またその頃は神祝(かむほき)許多(あまた)ありて左計の大社なりしに、何の頃にか兵火に燒夷せられ神官・社僧も離散し再修の功を計るものなく、社跡の西20歩許に榎の古木2株ありしを神體(しんたい)にかたとり里人力を(あわ)せて形ばかりの小祠を造営せしに、これも天文の頃(1532年~1555年)大風に吹倒され社頭の荒廃これに極まる。肥後守正之封に就いて後これを憂い、件の祠跡に就いて社地を広め宮殿を営し神體(しんたい)をば吉川惟足をして天羽車に封せしむ。寛文4年(1664年)より同8年(1668年)に至ってその功成り、同年5月11日郭内諏訪神社の祝部大膳権亮平常尚をして神職たらしめ、同9年( 1669年)11月29日正遷宮の式あり。同10年(1670年)6月27日始て大祭を行い後毎年この日を以て祭日とす。また鳥居の前に枯れたる欅の古根2株あり。中は腐盡して周囲のみ遺れり。往古よりの神木といい実に数百年のものなり。

制札

門を入て東にあり。

鳥居

両柱の間9尺。

本社

1間2尺四面、南向き。
春日造にて三方に瑞籬(ずいり)(めぐ)らせり

幣殿

3間に1間半

旅所

本社の東にあり。2間四面。

拝殿

5間半に2間。

神供所

旅所の東にあり。4間に2間。

宗源殿

本社の東南にあり。8間に3間。
三檀行事の式を行う処なり。

寶蔵

稲荷神社の北にあり。

末社

稲荷五社神社

祭神 稲荷神?
創設 寛文11年(1671年)
本社と旅所の間にあり。
3間四面南向き。鏡宮と唱ふ。
また相殿の神12座あり(神號詳ならず)。
この社肥後守正之江戸箕田の邸に祭りおきしを寛文11年(1671年)当社の末社とす。

稲荷神社

祭神 稲荷神?
相殿 稲荷神 4座 共に滝沢町より移す
   鬼渡神 石堂分より移す
創設
寶蔵の南にあり

護忠霊社

祭神 西郷近房の霊
創設 元禄16年(1703年)
稲荷社の南にあり。
肥後守正之・筑前守正経・肥後守正容の3世に歴仕し老臣西郷近房という者の霊を祭れり。
元禄16年(1703年)末社とす。

瀧直霊社

祭神 大膳亮常尚の霊
創設 正徳2年(1712年)
護忠社の南にあり。
当社中興の神職大膳亮常尚が霊を祭れり。
正徳2年(1712年)末社とす。

寶物

木像

2軀。
1軀は柿本人丸の坐像にて冠を著け曲几に倚れり。長5寸。頓阿作という。
1軀は菅天神の像。8寸、作者を知らず。古物なり。

猿田彦假面

1枚

四神像

共に古物なり

神職 佐瀬大隅

寛文中(1661年~1673年)当社再興の時大膳常尚をして神職たらしめしより今の大隅常壽に至て6世なり。世々台宮司と称す(郭内諏訪神社の条下笠原が家の伝と照見るべし


最終更新:2020年10月01日 19:47
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