町分・付録

陸奥国 若松 町分 付録
大日本地誌大系第30巻 193コマ目

いたか町

材木町の東、町分の地にあり(即材木町分の地なり)。
東西1町余・幅2町、家数8軒。
もとはここより東の方黒川の岸にありしを慶長の頃材木町の末に移し、後にここに移せしという。
昔いたかの住し所(ゆえ)この名あるにや(いたかの業とする処詳ならず。職人歌合に僧形の如き者小き卒都婆形を(ひさ)ぐ體を図にして穢多と番はせたれば、いたかの称も古き称とは見えたり)。今もこの町の者をはいたかと称し、他の商売に混ぜず恒に飴を煉て商う。また年々夷鐘馗毘沙門等の画像を府下及び村里に配り穢多の福よしの如きことを唱ふ。その詞鄙褻なれども伝るままに左に載す。
かほど目出度御大黒祝ひ申候では戸に立てはきちてうてんまほりの御経にうたひかひなし棟に押ては火ふせとなり舟の中にては龍浦島蔵の中ではうが大黒商の利をとり数の寶と御積あれ
また寛文中(1661年~1673年)の文書の写しあり。因に録す。
     請取錢之事
 合貳貫文は  上錢但京錢
右者ゑひす大夫上ヶ申銭也但湯淺兵助取上ル寛永四年分相濟也
  寛永四年十月晦日   佃野小右衛門印判
       ゑひす大大夫中參

穢多(えた)

この町いつの頃置くということを詳にせざれども蒲生氏の時既にありしという。
七日町四谷と薬師堂河原の間にあり。
東西2町13間余・幅5間、家数71軒。みな穢多の居なり。
革細工を業とす。
また往古より毎年正月福よし蚕種数などいう事を唄い府下の家々及び村里を巡て米銭を乞(若松の条下に照らし見るべし)。
町末を黒川流る。

癩人小屋

この町より少し離て西にあり、いつの頃置という事を詳にせず。
癩疾にかかりて寄邊なき者は凡てこの小屋に入れ乞食をして身を終えしむ。
この小屋の構の内に假埋(かま)場とて諸罪人の牢死せる者を假に埋おく所あり。癩人をして守らしむ。また蒲生家の時より預かりしという鐵釜2口あり。罪人を煮たる釜なりという。

褒善

甚右衛門

この町の穢多にて假に肝煎役を勤し者なり。若きより父に事て殊勝の行とも多し。父母失せし後は朝夕佛前の勤(おこた)らず子の源右衛門その妻いそも孝心深く、折にふれて珍しき食物等あれば価の高卑をいわず夫婦衣類を(ひさ)ぎても求め進めけるに、甚右衛門先ず父母の霊前にすすめ小の供るよしを告、後みづからも食しけるとぞ。先に甚右衛門が父恒に言いけるは、我々穢多町にすみて良民の交わりもなしがたし、責ては心を正直にし上を敬い良き行あらはやと教えさとしける。されば甚右衛門より源右衛門夫婦までかかる篤行ありしにこそ延享2年(1745年)3人に銭若干を与て賞せり。

孝行者利八

寶暦10年(1760年)褒賞して銭を与えり。

孝行者しち

利八妻なり。同上。
最終更新:2020年09月30日 22:24