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町分 > 東黒川 > 材木町分

陸奥国 若松 町分 東黒川 材木町(さいもくまち)
大日本地誌大系第30巻 191コマ目


材木町の西南に(めぐ)れり。
地面、東西9町25間・南北7町12間。

東は南町分に接し、西は本郡南青木組飯寺村に界ひ、南は本郡南青木組徳久村に隣る。
民居総て150軒あり。
府下材木町の末に続けるもの家数77軒。即材木町と称す。
多く胡桃を剥ぎて他邦に(ひさ)ぎ出す。

材木町より辰巳(南東)の方3町余に1区あり。
家数6軒、東西30間・南北42間。
新屋敷(しんやしき)という。
寛政2年(1790年)に開く。

材木町の西裏に並て家数3軒あり。
東西22間・南北1町8間。
芋茎新田(いもがらしんでん)といい、また裏新田ともいう。

材木町の北端より西に折れ応湖川を隔て1区あり。
家数11軒、東西1町・南北18間。
太郎兵衛新田という。
野菜を(ひさ)ぐ者の居る処にて、朝毎に青物の市あり。

その余は府下市店の中に雑居す(各その条下に付す)。

応湖(おうこ)

飯寺村の境内より来り、材木町の西を北に流るること11町1間余、小黒川分の界に入る。
広6間。

清水 2か所

一は材木町の東菜圃(さいほ)の中にあり。
周10間計、(あし)(よし)生す。

一は太郎兵衛新田の東南にあり。
周1町余。末は西北に注で応湖川に入る。

住吉(すみよし)

この地面の西北の方にて、応湖川を引き高久組西柳原村の方に注ぐ。

対馬館

地面の東北の方にて今田圃(たんぼ)の字に遺れり。
松本対馬某という者住せしという。
対馬は南町分允殿館に住せし松本右馬が伯父にて、明應9年(1500年)2月6日(ころ)せらるといい、如何なる罪状にか詳ならず。

旧家

山浦茂助

姓氏の初を伝えず。先祖を江口市之丞義次といい、蒲生家に仕えて物頭を勤め足軽30人を預かりしという。
慶長3年(1598年)秀行に従て下野国宇都宮に移り、同6年(1601年)再封の時また会津に来り、寛永4年(1627年)蒲生家断絶の時浪人す。
その子善右衛門義勝、山浦氏に改め材木町分の肝煎(きもいり)となりしより相続て今の茂助義重に至て(なお)ここの名主を勤む。
家に武器数品を蔵めしが往年火災にかかり今余す所。
蒲生家の文書3通あり。左に載す(※略)



参照・補足


外部リンク等


地区名について

幕末まで(1868年)、若松城下材木町分。
明治10年(1877年)、蚕養宮村、上河原分、千石町分、石上分、新屋敷分、八幡村の各一部および八角分、南町分、材木町分、一本木分、黒岩村、南四合村の各飛地が若松城下に編入。材木町分が日吉村に改称。

市町村沿革変遷表

明治6年 明治10年 明治22年 明治32年 昭和30年
材木町分 日吉村 門田村 会津若松市
若松の内 若松片柳町 若松町 若松市
材木町の内
一本木 飛地
南四合村 飛地
石上分の内
材木町分 飛地
若松栄町の内 若松南町
材木町分 飛地
南町分 飛地
石上分の内
千石町分の内
最終更新:2026年01月11日 01:00
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