府城の南に当り行程1里34町。
家数14軒、東西1町10間・南北1町16間。
四方田圃にて、西は鶴沼川に近し。
また、戌亥(北西)の方2町40間隔て家数2軒あり南は松原新田村に続く。
東2町20間
面川村の界に至る。その村は辰巳(南東)に当り7町30間余。
西3町40間
大沼郡橋爪組本郷村に界ひ鶴沼川を限りとす。
南38間
中島村の界に至る。その村まで1町50間。
北2町30間
一堰村の界に至る。その村は戌亥(北西)に当り8町50間。
また
戌(西北西)の方2町40間
松原新田村に隣りその村際を限りとす。
山川
鶴沼川
村西3町40間にあり。
中島村の境内より来り、北に流るること4町10間、
一堰村の界に入る。
里人常に
歩渉する所を大宮司渡場と称ふ。
昔いつの頃にか筑紫宗像社大宮司の氏族会津に来たりこの村に住し、岩崎(本郷村の境内)の霊山なることを知り嶺上に宗像神社を勧請し100日の間この川を渉て参詣せり。故に渡場の名とすという(
本郷村の条下に詳なり)。
この川年々洪水ありて流れを常にせざれども、この村の境内には必ず浅瀬ありて歩渉する所たえず。
また寛文の頃(1661年~1673年)家士服部安休という者ここを渉て岩崎に詣でしことあり。故に今
安休渡場とも名く。
水利
門田堰
松堰
中島村の境内にて鶴沼川を引き、田地の養水とし
一堰村の方に注ぐ。
神社
稲荷神社
村中にあり。
鳥居あり。村民の持なり。
寺院
観音寺
村中にあり。
曹洞宗水雲山と號す。
天文中(1532年~1555年)慶幽という僧開基し、正保中(1645年~1648年)風岩と云う僧再興すという。
北青木村善龍寺の末寺なり。
本尊観音客殿に安ず。
余談。
松堰(と門田堰)は昭和に入ってから用水開発事業で廃止されました。
会津南部地区の農地は、阿賀川の右岸会津若松市と続きの地域、阿賀川左岸上流側の地域、その下流側の地域に大きく3分されます。それは現在の、門田幹線用水路の関係地域、大川幹線用水路の関係地域、富川幹線用水路の関係地域にあたります。
それぞれの地域では、相当古い時代から水が引かれ、堰守と呼ばれる世襲の管理者を中心に用水管理が行われてきた歴史を持っています。
大正年代末には、大川(現在の阿賀川)に多数の取水堰が設けられていましたが、日照りが続くと干ばつとなって取水量が不足し、大雨や長雨となると出水して激流は、堰枠等を押し流し、その復旧に多くの費用や労力を要し、平均2割もの減収を余儀なくされたと記録されています。また、対岸との水争いもしばしばで警察の出る事態もありました。
昭和2年に、農林省は狩野徳太郎技師を福島県に派遣し、共同で測量設計を開始したのが、福島県営大川筋農業水利事業計画です。内容は、大川右岸の門田堰、松堰と左岸のうつろ堰、本郷堰、岩崎堰を廃しし、馬越地点に頭首工を設置し統合取水する計画で昭和3年2月に県議会で議決されました。右岸側は、昭和8年に完了し、左岸側は発電(現在:東北自然エネルギー株式会社)との共同事業で進められ、昭和25年に発電を除く部分が完了しました。その後、発電施設の建設(本郷発電所)が進められ昭和31年から営業を開始しました。このように、当時いちはやく発電と共同事業を企画実行しており、そこには、幾多先覚者の事績が輝いています。
最終更新:2024年03月28日 15:31