大沼郡橋爪組本郷村

陸奥国 大沼郡 橋爪組 本郷(ほんかう)
大日本地誌大系第32巻 174コマ目

府城の西南に当り行程2里。
家数95軒、東西5町50間・南北41間。
東の端より北に折て陶師の居所あり。
家数27軒、東西30間・南北2町。
共に下野街道を挟み東は山に()ひ三方田圃(たんぼ)なり。

東は山を隔て会津郡南青木組に隣り界域分明ならず。
西1町6間大八郷村の界に至る。その村は未申(南西)に当り4町30間余。
南2町33間本郡南青木組大石村の端村柳窪の地に界ふ。大石村は辰巳(南東)に当り21町40間。
北2町8間会津郡本組上荒井村の界に至る。その村まで9町余。
また寅(東北東)の方1町会津郡上荒井新田村の界に至る。その村まで2町30間余。

永禄4年(1561年)葦名盛氏この地に城を築きしとき、三日町・高田町・六日町などいう所ありて、この村も町と称し市場にて繁栄せし所なり。葦名氏黒川の本城(今の若松なり)に移りしとき商家も黒川に移る。今府下の本郷町六日町・三日町はここより移るという。

西端に一里塚あり。
この村は昔より駅所なりしが、蒲生氏の時この駅をやめ府下より火玉村(今の福永村なり)の駅に継へき旨ありてより今に然り。その時の文書あり。左に録す。
  以上
南山通御荷物上り候を其地にておろし候儀 
迷惑の由聞屆候向後は氷玉迄當町の者
通し候様にと申付候間可得其意者也
       岡半兵衛尉 
 十二月十九日   重政(花押)
       町野左近助
          繁口(花押)
     本郷町肝煎中

端村

三日町(みつかまち)

本村より辰巳(南東)の方7町にあり。
家数18軒、東西1町・南北2町。
山間に住す。
西に田圃あり。
盛氏城築の時商家ありし所という。

船場(ふなは)

本村より卯辰(東~東南東の間)の方16町、向羽黒山の東麓にあり。
家数3軒、東西21間・南北28間。
東は鶴沼川に臨み南は菜圃(さいほ)なり。
南青木組一堰村の通路鶴沼川に舟渡ありし時、船小屋を設し所なりという。

山川

鶴沼川(つるぬまかわ)(大川)

俗に大川という。
本郡南青木組大石村の方より来り、端村船場の東を過ぎ向羽黒山の東麓に傍ひ、北に流るること10町余会津郡本組上米塚村の界に入る。
広1町余。

大堀(おほほり)

村西にあり。
広3間計。
南、田畝の間の谷地より出る。
水あつまりてこの川となり、東より西に流れ北に折れまた西に転じ、高倉山の北麓を回り大八郷村の地を過ぎ火玉川に入る。
この村の境内を流るること9町計。

清水

村の卯辰(東~東南東の間)の方3町、向羽黒山の下にあり。
土人姥懐清水(うはかふところしみず)という。
周5尺余。
父に乏しき婦人この水を飲めば験ありとぞ。

原野

北原(きたのはら)

向羽黒山の北麓にあり。
東西6町・南北3町余の芝原なり。
葦名氏この山に城築し時は士屋敷・商家などありしという。今は追鳥狩場とし、隔年に家士を合し騎歩の隊列を分ち雉子山鳥の類を負追取らしむ。
この所の南は山に傍ひ、北は平野に向い、東西は青松繁陰し鶴沼川の流れに近く、境地(すこぶ)る佳なり。

土産

陶器

文禄2年(1593年)蒲生氏卿城郭修理の時屋瓦を造らしめしとて、播磨国より石川久左衛門というものとその他3人の瓦工を招き南青木組小田村にて瓦を製せしむ。その色黒かりしゆえ黒瓦と名く。その後上杉・蒲生・加藤氏の時に至ても専らこれを作る。当家封に就いて後も分て本村と小田村と両所にて造出さしむ。
その頃美濃国瀬戸の産、水野源左衛門というもの仙道長沼に在て陶器を作りしに、正保2年(1645年)この地に来りしを留めて月俸を与えここにおき数品の陶器を製造せしむ。いくほどなく源左衛門死ければ、弟の瀬戸右衛門というものを再び長沼より招き源左衛門が家を相続せしむ。子孫今にあり。世々底に巴の形ある茶碗を作り家伝とす。
その後陶工年を逐て輩出し、本村の東続きに屋をならべて集まり住し諸の陶器を作る。その制なおいまだ精巧ならずといえども本郷焼とて甚民用に便あり。
また瓦は別に役所を設けて造らしむ。小田村にて焼初し黒瓦は質脆く凍雪に堪ざるをもて、承應の頃(1652年~1655年)より赤き色の瓦を本焼にす。黒瓦に比すれば堅固にて久きに堪え凍雪に破れず。

水利

本郷堰

村より14町丑寅(北東)の方向羽黒山の北麓にて鶴沼川を引き、田地の養水とし上荒井村の境内に注ぐ。

思鑿堰(おもひほりせき)

本郷堰を引く所より北の方1町計にてまた鶴沼川を引き、上米塚村の界に注ぐ。多く会津郡中荒井組諸村の田畝を潤す(ゆえ)土人中荒井堰ともいう。

神社

宗像神社

祭神 宗像神?
相殿 諏訪神
   山神
   明神
鎮座 神護景雲年中(767年~770年)?
村東14町計向羽黒山の半腹にあり。
相伝う。神護景雲年中(767年~770年)筑前国宗像大宮司の支族何某というものこの国に来り、南青木組花坂村に住しこの神を祭しに、信託に依てこの所に移し祭るという。
暦年久遠にして履歴の詳なることを伝えず。
社頭もやや衰廃せしを寛文中(1661年~1673年)再興し、毎年6月21日祭禮あり。
永禄の頃(1558年~1570年)葦名氏この山上に城築せしとき出丸あり。この社あるゆえ俗に弁天曲輪と称す。
また奇岩壁立し東は鶴沼川の流れに臨むゆえ、岩崎山とも弁天山とも称すれども実は向羽黒山の支峯なり。
本社は数丈の岩上にあり。山腰を伝てここに至る。三面に欄干を設く。
首を回せべ北に平野ひらけ、東南は鶴沼の長流山下を(めぐ)り、府城及び所々の村落みな眼下一望の中にあり。山中躑躅(つつじ)多くまた松樹繁陰して清風の響絶ることなく閑寂賞するに堪たり。その外四時の美景その変態のうるはしきこと誠に限りなき(なが)めなり。されば騒人墨客(そうじんぼっかく)登躋して風物を賞観し、城跡を尋て懐古の情を催さざるものなし。
鳥居拝殿あり。

神職 宗像出雲

当社の草創せし祠官は宗像氏なれども、年代久遠にしてその名を伝えず。
寛文の頃(1661年~1673年)は小林多門というもの神職を勤む。
天和3年(1683年)に多門土津神社の昇殿役となりしかば、秋山玄蕃勝直というもの代て神職となる。勝直3世の孫明盛子なくして、若狭尚清というものを養子とす。即当社を草創せし宗像氏の後裔にて、今の出雲清地が祖父なりという。清地初め秋山氏を称せしが後請て本姓に復す。

羽黒神社

祭神 羽黒権現?
鎮座 天平年中(729年~749年)?
村東7町計向羽黒山北の小峰にあり。
石階を登ること170余級。登眺の佳称すべし。
縁起に、昔天平の頃(729年~749年)行基この国に来り南青木組湯本村東光寺を草創し羽黒権現を勧請す。当社の神像も行基の作の霊像にて中頃この山の頂上に鎮座あり。
永禄4年(1561年)葦名氏城築のとき今の地に移し崇敬浅からず。
社頭壮麗を極め神官社僧も多かりしに、天正17年(1589年)葦名氏亡て後殿宇廃毀(はいき)せり。
近世村民力を(あわ)せて僅かに再興す。
鳥居拝殿あり。

舊事雑考
暦應2年(1339年)の記に、羽黒権現飯田嶋に移りたもう。飯田嶋は南青木組一堰の端村本羽黒のことなり。その後慶永の始(1394年~)にやこの山の頂上に移して即この山を今羽黒という。飯田嶋はその旧跡ゆえ今羽黒というのに対して本羽黒と称せしよりいつとなく飯田島の名は失いしなるべしと。また應永21年(1414年)の記に、塔寺村八幡宮長帳に因り今羽黒治部卿と書し細註に今羽黒は岩崎向羽黒なるべしとあり。
今本社の東麓の山間に楽人屋敷・神楽所なりという菜圃の字に遺れり。

末社 稲荷神社

本社の前にあり。

別当 寶珠寺

村中にあり。
羽黒山と號す。湯本村東光寺の門徒天台宗なり。
開基詳ならず。
昔は羽黒神社の南山中にあり。永禄の頃(1558年~1570年)この所に移せり。
古は東光寺の僧来て神事を相けしが、永禄の頃(1558年~1570年)より専ら当寺にて執行すという。
本尊十一面観音客殿に安ず。
聖天堂
客殿の東にあり。
塗籠なり。
寶物
假面 3枚。
一は猿田彦神面。
一は翁面。
一は癩疾の形を摹す。
共に古物なり。
相伝う。何の頃にか葦名氏悪疾に罹り、平癒祈願のため假面12枚を納む。今3枚のみ遺れりとぞ。

寺院

圓通寺

村中にあり。
白鳳山と號す。永禄元年(1558年)学心という僧開基す。
府下五之町高巖寺の末寺浄土宗なり。
本尊三尊弥陀客殿に安ず。

寶物

馬画 1幅。元信筆という。

常勝寺

端村三日町にあり。
天正13年(1585年)常勝という僧ここ来り庵室を結び浄土真宗の教えを奉し常勝坊と号し府下西名子屋町西蓮寺の末山なりしが、その後京師西本願寺の直末となり寺號をゆるさるるという。
弥陀を本尊とし客殿に安ず。

太子堂

客殿の辰巳(南東)の方にあり。

観音堂

村東2町30間向羽黒山西北の小峯にあり。
建立の年代しれず。
縁日4月8日なり。この日近村の農民馬を牽来り堂の4邊を馳回る。見物多し。
圓通寺司なり。

岩窟虚空蔵

端村船場の戌亥(北西)の方4町計向羽黒山の東面半腹にあり。
高6尺・深3間計・畳10畳余をしくべし。
虚空蔵の木像を安置す。
常勝寺これを司る。

古蹟

向羽黒山城趾

※国立公文書館「新編会津風土記72」より

村東にあり。
昔頂上に羽黒権現の祠ありて湯本村の羽黒山と相向えるをもて向羽黒山と名く。また今羽黒ともいいしとぞ。(羽黒権現の条下と照らし見るべし)。
葦名修理大夫盛氏、その子盛興に家を譲り永禄4年(1561年)経営の事を(はじ)め数年の後城築の功成りてここに隠居し、止々齋と號せしとぞ。天正3年(1575年)6月盛興早世しければ、盛氏再び黒川に帰住しこの城を廃す。
東は石壁峙ち鶴沼川を擁し西北は平野に臨み南は衆山連なり出、その状陰山なればとて城築の時南の麓を切通し山脉を絶ち陽山とせしという。
周廻1里余。
北の麓より頂上まで4町計本丸の跡あり。東西20間・南北10間。
その北に下りて二ノ丸趾あり。東西30間・南北17間。
(三ノ丸もありしといえどもその跡今詳ならず)
共に空隍(からほり)を回らし往々石垣の趾存し旧礎もなお遺れり。
また東の半腹に出丸の趾あり(今宗像神社のある所。土人弁天曲輪と称するものこれなり)。
その外馬場蹟或は眤近諸士の宅趾とて、山間に平地多し。
二ノ丸の西に9尺四方ほどの池のごときあり。今は埋みて谷地となれり。土人は古井と称し城ありし時の用水にて、千人の渇を療せしという。今は草木繁茂し地形詳なるを知るべからず、といえども昔のかたみにや縦横に経路あり。
眺望も佳景にて満山躑躅(つつじ)多く、花時躋攀(せいはん)して勝を探るもの少なからず。
また山の北峯より木葉石を出す。石理木葉のごとし。わりれ見れば中にも同紋あり硯に作るべし。
東の中腹に岩あり七千夜叉佛と称す。その面に佛體ありて石理のごとく時として見るものありという。奇怪な事なれども久しく言い伝えしことなればここに注す。
永禄中(1558年~1570年)覚成という僧の撰える岩館銘というものあり。その文煩冗(はんじょう)禄するに堪えざるものながら、古世の著作なれば左に出す(※略)

大運時蹟

村北にあり。
天文元年(1532年)越後国村上大榮寺の僧冥察というもの来て開基し岩松山と號し曹洞宗なりしが、元禄3年(1690年)故ありて廃す。






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