この村は元禄8年(1695年)宇都宮街道発けしきとき新たに設けし駅所にて、田地なくただ人馬をつき立てることを業とす。その後年を経て民家やや多くなり、南倉沢・音金の両村入逢の地を新墾し今は一村となれり。
府城の南に当り、行程12里。
家数10軒、東西1町20間・南北45間、山の半腹に住す。
松川村駅より2里ここに継ぎ、ここより3里下野国那須郡三斗小屋駅に継ぐ。
四方みな南倉沢・音金両村の山林・田圃相雜はり境界分ちがたし。
関梁
野際口
村より1町辰巳(南東)の方にあり。
ここより大峠を踰て那須郡に通ず。
木戸門を設く。番戍を置き往来を察せしむ。
奥州駒返坂について
会津藩は元禄8年(1695)松川通り(会津中街道)を開削した。天和3年(1693)9月1日、日光大地震により五十里湖が出現し、南山通り(会津西街道)での参勤や廻米が困難になったためである。
その道筋は、若松・面川・香塩・小塩・桑原・小出・弥五島・松川・野際・三斗小屋・板室・百村・高林・横林・上石神・山田・矢板・川崎・乙畑・氏家に至る31町52間の街道である。
旧道は現道よりも東側に位置している。野際宿からつづら折りの坂を登り切り、下る坂を「奥州駒返坂」と呼んでいた。ここには元禄8年銘「奥州駒返坂」の碑があり往時を偲ぶことができる。
険阻な大峠を越えるため、時の藩主松平正容公もこの場所で駒を返し徒歩で峠を越えたと伝えられる。
下郷町
道を先に進むと石碑があるらしいのですが、確認できませんでした。
最終更新:2024年02月10日 19:02