大沼郡冑組観音村

陸奥国 大沼郡 冑組 観音(くわんおん)
大日本地誌大系第33巻 48コマ目

この村もとは観音堂村という。寛文中(1661年~1673年)より堂の字を省けり。

府城の西南に当り行程4里28町。
家居18軒、東西1町5間・南北2町、金山郷に通る道に住す。
四方田圃(たんぼ)にて東は宮川に臨み西は山に近し。

東1町20間落合村に界ひ宮川を限りとす。その村は巳(南南東)に当り1町。
西20町計海老山村の山に界ふ。
南2里20町計野尻組小野川村の山に界ふ。
北3町52間魚淵村の界に至る。その村まで5町50間余。

端村

倉谷(くらたに)

本村より3町未申(南西)の方にあり。
家居1軒、山麓に住す。

松倉(まつくら)

旧は小山村の端村なり。寶暦12年(1762年)この村に属す。
本村より未申(南西)の方1里12町にあり。
家数6軒、東西20間・南北27間。
深山の間に住し、木地を挽て生計とす。

山川

宮川

村東1町20間にあり。
落合村の境内より来り、5町20間北に流れて魚淵村の界に入る。

松倉(まつくら)

村南1町にあり。
上流は龍沢(りゆうがさわ)白沢(しらさわ)とて2条の渓流なり。
未申(南西)の方1里20町計山奥にて2派合しこの川となり、丑寅(北東)の方に流るること1里20町余落合村にて宮川に入る。広4間。

関梁

村より辰(東南東)の方50間余にあり。
長7間・幅5尺。
落合村の界、松倉川に架す。

神社

山神社

祭神 山神?
相殿 稲荷神
石神
鎮座 不明
村南1町にあり。
鳥居あり。仁王村高橋相模が司なり。

寺院

観音堂

村中にあり。
建立の年月詳ならず。
落合村長福寺司なり。



古地図

※地理院地図(大正2年測図/昭和6年修正測図)

観音集落は、昔は観音堂の西側にでる道路があって、観音堂中心の町並みであったが、現在はバイパス道路で一気に駆け抜けるように変わってしまった。

神社

鎮守は大山神社で、相殿は稲荷社である。なお、松倉にあった大山神社も同時に祀ってある。
西の外れには、石神子安神社が静かなたたずまいをみせている。

松倉

坂内家はもと伊勢国三重県の坂内城主で、北畠家に従っていたが、天正四年(1576)織田信長による伊勢攻めにあい、北畠具信・具義父子が討ち死にすると、坂内憲政は子憲勝をつれて遠く会津に逃れてきた。当時の会津藩主は葦名盛氏であったおで、ここに仕官を求め、屋敷の船岡館主で四宿老の一つである松本図書を頼った。松本図書は遁れ身であった坂内父子を領内の松倉山峡に住まわせた。これは天正六年のことである。しかし、坂内家は数年にして小山に移転した。現在もその住居跡に石祠が残されている。また、松倉川流域の広大な領地は、宝暦十二年(1762)に、坂内家の小山領から地元の観音領に変更された。
その後、木地師が入って住んだのが六戸であるが、江戸後期には裏磐梯方面に移ってしまった。
さらに、その前に隠れキリシタンが住んだという事実もある。彼らが住んだのは、寛永十四年(1637)の島原の乱以降で、遠く東北にまで落ち延びてきて隠棲した。この頃の中心地が落合村であり、また松倉であった。この時の会津の領主は、加藤成明である。
最終更新:2025年08月15日 20:41
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