府城の西に当り行程6里12町。
家数5軒、東西50間・南北20間。
南北は山に傍ひ東西は田圃なり。
東1町・西5町・北7間、共に
田代村の界に至る。その村は北に当り12町。
南2町43間
牧沢村の界に至る。その村は申(西南西)に当り14町。
神社
伊夜彦神社
村南2町にあり。
鳥居拝殿あり。名入村二瓶大和が司なり。
中村の伊夜彦神社
柳津町誌に中村の伊夜彦神社の記載があるので一部引用
村人は「船型神社」と称しており、「伊夜彦神社」と「船型神社」の関係が明らかでない。会津藩主保科正之公が寛文十二年(一六七二)に『会津神社誌』を編纂したが、
大沼郡内の神社は六十二座を定めた。その中に高田
伊佐須美神社を初めとして、田代伊夜彦神社と共に中村伊夜彦神社の名がみえる。西山地内の神社で掲載されているのは七社だけで、船型神社の名はどこにもみえない。このことから推量すれば、氏子の心情として往昔より継承されたであろう伊夜彦社を廃絶することはないであろうから伊夜彦社を船型神社と呼び習わしたものと思われる。
中村街道の蛇桜を経ると牧沢街道と鮫沢山道の岐路にさしかかる。そこに一団地三ヘクタールの水田があり田表と呼んでいる。西山地内にも珍しい平坦地である。その昔大きな沼であったが、南北を開削して水を抜き開田したのである。現在もその一部は沼となっている。その中に浮島があり、高台に石の祠がある。今は浮島への道があり徒歩可能であるが、昔は小舟を用いて渡り参詣したといわれている。この浮島の神社の名がみえないのが不可解である。その当時は家数十軒、竃十四、人口は五十四人である。墓地が四ケ所にあるところからみても散在して一村をなしていたことが推察できる。文化年間(一八〇四〜一八一七)には家数五軒に減少している。大きな五輪の塔があるのは観音堂との関係があろう。
屋敷跡に礎石が埋もれている。詳しい記述は「集落誌」に譲ることにしよう。
宮下居平俗に屋敷と呼ぶ小高い丘に石祠の稲荷神がある。享保十二年(一七二七)八月二十四日、田崎(名不明)もう一体に享保十九年四月吉日田崎仁口郎の刻印があり、境内に一〇〇年余の老杉が亭亭とそびえている。中村に田崎姓が多かったと伝えられているが、宝暦十一年(一七六一)の正徳寺半鐘に中村田崎仁兵衛の刻印があることによっても知ることができる。
字一盃蒔の小高い山やその他にも石祠が散在しているが、これはそれぞれの氏の守護神であろう。久保田と同じく権現信仰もあり、蛇桜の近くに正徳五年(一七一五)五月二十八日に建てた石祠が奉祀されている。
最終更新:2025年01月02日 23:11