※国立公文書館『新編会津風土記74』より
祭神 |
伊弉諾尊・伊弉冉尊 |
創建 |
貴楽元年(552年)? |
延喜式、内陸陸奥国一・百座の一にて、祭神はすなわち
伊弉諾・
伊弉冉の両尊なり(神名帳には会津郡の部に
載す。今は本郡(大沼郡)に属す)。
縁起を案ずるに、この神元は明神嶽(冑組)に鎮座ありしが(大石組本名村博士峠と越後国
蒲原郡小川荘御神楽嶽にもこの神鎮座ありしよしをいい伝う)、欽明帝 喜楽元年壬申(552年)この地に遷し祭るれりという。
御正体に正一位の
神爵を銘じ、大同4年(809年)の彫付(
寳物の部に出す)あれども、【続日本後記】仁明帝承和10年(843年)『陸奥国伊佐須美神従五位下
授け
奉る』とあれば、大同の頃この
神爵ありしには非ずその後正一位の
贈爵ありし見ゆ。後奈良帝天文12年(1543年)12月14日の
位記今に存せり。
されば歳時の祭厳重にて四郡の内にもこの社の祭田戸多く神職もあまたありしが漸々に衰廃せり。されど天正の頃(1573年~1593年)までは高田・長尾2ヶ村にて300貫文の社領ありしを、同巳丑(1589年)伊達氏の乱にこれをも失えり。豊臣太閤の命にて住古より後正作田と称する所の地7段この社の領となれり。その後肥後守正之封を受けこの神の祀典にのり威霊の厳重なるを崇ひ30石の地を寄付し社屋をば府の修造とす。天明3年癸卯(1783年)また災に罹り神殿門廡共に焚燬とす。今の社はその後府よりこれを造営せり。
冠木門
南門の外にあるを正面とす。
両柱の間2間。左右に柵木あり。門外に馬止舎あり。
東西の透門の外にもまた冠木門あり。寸尺冠木門と同じ。
東西共に冠木門の外に馬止舎あり。
鳥居
冠木門を入て南門の外にあり。
両柱の間1丈2尺、明木造なり。
東西透門の内にも鳥居あり。
寸尺南の鳥居に同く。
都て三ヶ所にあり。
制札
南鳥居の外にあり。
南門
南の鳥居を入って本社にゆく正面の門なり。
3間に2間半。
門の左右に廊あり。祭りの時はここに警衛を置く。
この門の東の桁に『天文十八年甲斐國 武田信玄家來 武者執行同行三人 堀無手右衛門縄無理介澤是非介』と記せる題名あり。
内棟木に上山よりまさという6字あり。これは天正巳丑の乱に羽州上山領主義正という者政宗に従いここに来り、鑓の鉾に筆を約し馬上にてこれを題せりという。これ等の墨痕近頃までありしが、天明3年(1783年)の火災に焼失しその後府よりこれを造営せり。
薄墨桜
南門を入って左の方、本社の西南にあり。
高1丈有余、4方5、6歩を庇えり。4方に柵木あり。周10間計。
遷宮の頃よりありし神木なりと云う。
花は八重にして一重まじり。浅紅にして淡墨を含む。因ってこの名あり。
外の桜樹よりは少遅く、3月中旬の頃漸盛なり。
香気殊に深く花色最艶なれば、ここに来り花を賞するもの多し。
ある人の説に、この樹の名花なる事朝に聞えて隠なかりしかば大永5年(1525年)11月8日左小弁某に仰て詔書を賜わりしに、その書水雲紙に記されしにより薄墨の称ありと云う。
文明18年(1486年)6月の頃、この花開て春の如し。神職渡邊大和某が2子万寿丸とて、13歳なりしが和歌を詠ず。
君が世の 久しかるべき ためしには 伊佐須美よしの 桜木の花
その頃は乱世といい田舎の事なれば、童にてかかる口號に世に珍しかりしにや。葦名隆盛その夙慧を賞し、後には渡邊主殿光綱と號し、河沼郡台村にて永楽銭30貫文の地を領せりとぞ。
また、寛文5年(1665年)にも、6月18日の頃よりこの花開て春月の如し。
天明3年(1783年)の火に、この樹を焼いて已に枯んとせしが、今また繁茂して故の如し。
鐵華表
本社の前にあり。今は両柱折れて長7尺有余・周6尺5寸計の鐵の柱2残れり。
柱に各仏象1軀を隠起にし、礎石各1丈有余。その間3間計なり。
舊事雑考に明應元年(1492年)10月26日長峯越中という者建てるとあり。
また民間の言伝には、本郷東尾岐村の百姓佐藤某が先祖にて奉納せる鐵の藤蔵の圯廃せしなりぞと。何れがこれなることを知らず。
本社
3間4面南向。南に階あり。
東西を繚りて庇縁勾欄あり。
玉垣は東西より北に繚り、26間余。神体は1木にて刻めり。長4寸8分。また、同社に塩釜明神と八幡宮を配食す。
祭事は5月砂山祭、御田植祭、8月流鏑馬の類古風を存す。
また、3曲の神楽歌あり。左に記す。
錦綺帳
丹志喜廼登波里 古河禰乃瀬登乎 於之比羅幾 夜幣乃久母乎 惠伊和氣天 天良草舞也 天良草舞
阿知女作法(毎曲謡之)
安知面於於於於於於於氣安知面於於於於於於
十寸鏡
太神廼御影乎移白銅鏡 中爾曇半 惠伊須惠事刀杼面珥
安名手伸
安那多乃之 孤能彌可具良乃於登 安那多能志 古乃可武可遇蘭乃 惠伊淤等波知譽布流
幣殿
4間に2間。
拝殿
6間に3間、四面に庇縁あり。
奥州二宮伊佐須美太神社という額あり。従二位ト部連卿の筆なり
神供所
拝殿の西にあり。
2間半に2間。
東西に庇縁あり。
拝殿の住所に幅1間に長4間余の渡を架へ左右に勾欄あり。
神庫
本社の西北にあり。
2間に1間半。
四方に柵あり。周7間余。
囘廊
本社の前南門の東西にあり。
共に6間に2間。
祭禮の日は神官等東の廊にて斎す。
西の廊は祭の時雨の備とす。
番所
本社の西南にあり。
1間半に1間。
神職の者輪番する所なり。
東門
本社の東にて宮川の方に出る門なり。
1間半に1間。
宮川は本社の御手洗なり。
西門
本社の西にて社家町の方に出る門なり。
間数上に同じ。
この南に1間4尺に1間半の処あり。古札を納める所とす
井
2あり。
一は神供所の南、一は南門を入って右の廊の前にあり。
共に屋を構え三方に柵あり。
また南門の井に並んで盥水の所あり。
屋を架す。2間に1間半、石の盥を設く。
天満宮
南門の外、本社にゆく路の左にあり。
前に鳥居を建。
相殿(31座あり)
相殿
- 稲荷神 5座
- 伊勢宮 3座
- 荒神 2座
- 八幡宮
- 熊野宮
- 三島神
- 鹿島神
- 宗像神
- 山神
- 聖神
- 幸神
- 天神
- 天王神
- 塩釜神
- 石神
- 一王子神
- 七五三王子
- 十二神
- 八乙女神
- 鬼渡神
- 叶神
- 軍神
- 加武気神
- 権現
守従霊社
本社の東にあり。
元文元年(1736年)家老西郷源蔵近方を祭り末社とす。
鳥居・拝殿あり。
額に守住霊社と題す。文書博士菅原長親の筆なり。
高天原
本社の西南にあり。
1町四方の地にて本社の神輿を渡る旅所なり。
中央に本殿あり。
三方に玉垣を繚らし、前に弊社・拝殿・鳥居あり。
またこの中に相撲場あり。毎年8月16日随兵童子とて、童子を力士姿に造り相撲を取しむ。
また左右に二ヶ所の的場あり。祭りの日禮射賭弓を行う処なり
流鏑馬場
本社の西南高天原の北にあり。
東西1町35間・広8間余。
毎年8月16日流鏑馬を行う。
御正作田
本社より子丑(北~北北東の間)の方5町40間余にあり。
相伝て本社の神田とす。
文禄元年(1593年)豊臣家中村式部少輔を目代としこの地を検校し、上古已來の神田たるに因りこの社に寄付し免除地とす。その地7段余あり、不浄を入れざれどもよくみのるという(舊事雑考、康應2年(1390年)の記に伊佐須美に月祭田1500束とあるはこの御正作田のことなるべし)。
宮林田
本社の南にて高30石の地なり。この地昔は一藂の平林にて本社に属せり。
寛永12年(1635年)3月14日に本村に火災ありて民家残り少なく延焼せしにより、領主加藤式部少輔との林を伐て本村の家作とし新田を闢き高67石余の地とす。その地本村と永井野村の間にあるゆけ、村名を境新田という。
姥清水
本社の東北にあり。
3間四方計。北に流れて御正作田に灌ぐ。
旱魃にもこの水涸れることなし。
祭禮
砂山祭
本社の条下に記せる如く、毎年5月5日にこの祭あり。
塩土翁を祭るにより鹽土祭ともいう。
即5日の晨けに玉垣の内東北の隅に2の砂山を築き、一の砂山に幣帛を建てその前に机を置き香爐・燈明を設け海藻を始め種々の備物を供し神職長官進んで中臣秡三種大秡を誦す。外にまた神職1人鳥兜を冠り朱塗りの假面をきて槌を取り一の砂山に進む。禰宜1人また鳥兜に黒塗りの假面をきて八角に削れる3本の杭を砂山に建つ。神職槌にてこれを打つ。時に神秘の咒文あり。この時楽人皷吹調拍子を調べて神楽歌を奏す。その後神職長官祈念して祭事終わる。この塩土翁鹽を煎初め給いし時に效ふという。因てこの社の寶物に鐵杖の首の両岐なる者あり、これ上代の火箸なりとぞ。後嘉元元年(1303年)に寺入村に社を建てこの鐵杖を神體とし金跨大明神と號してこれを祭る。この鐵杖今はなし。
御田植祭
これも本社の条下に記せる如く、毎年5月の末6月の始、子午卯酉の日を撰びてこの祭あり。その式巳の刻に童子4人馬牛鹿獅子の假面を被り本社を三たび巡り、南門より村中の両頬の民家にかけ入り一軒ごとに後戸より前戸に出、御正作田に行き残りなく踏みならし、帰りに初過らざる家あれば前の如くかけ入り、本社に還り假面を納む。村中の兒童これに従て馳巡る。もし誤て過らざる家あれば、必ず禍ありとてこれを忌むという。
午の刻に及んで禰宜共圭冠・袍襖にて神田に往く。その行装の次第白子翁・黒子翁・白子女とて藁人形3を造り、男の姿は烏帽子狩衣・女の姿は菅笠帷子にて各假面を着せその外にも種々の人形ありてこれを先に立、田に往きて祭あり。その時催馬楽の詞あり。左に記す。
催馬楽十二段
太神宮能面佐布等氐都奈義於岐多類後座婦禰其一
御正田廼林田波高天原乃與伊止古路其二
太神宮能御田地八葦毛乃古満乎波也宇牽其三
佐耶氣喜也竹乃音乃草野氣幾其四
太神宮廼御手坪爾於侶寸豊乃千垂頴其五
廣田也安田也植留地乃多乃之幾其六
白良葦毛乃白能駒乎高天原仁繋汰其七
志那比太也之奈飛太也秋乃垂穂波八握穂丹其八
太神宮乃面佐布十低葦毛乃駒乎繋太其九
低田哉高田哉栽流多哿羅廼楽憙其十
曾于登入耶曾于登入耶與等入也竹濃長枝農素譽都伊連其十一
其十二闕
寶物
口宣案
1通。清龍寺の住僧智鏡が請にて再び賜りし所なり。その文如左
上卿 中山大納言 天文二十年十二月十四日 宣旨 陸奥国伊佐須美社 宣奉授正一位位記 蔵人権右少辨藤原經元 奉
※天文20年=1551年
勅額掛幅
1軸。天文20年賜る所という。表に『奥州二宮正一位伊佐須美大明神』背に『依勅命大納言孝新書之』とあり。
年代記掛幅
1軸。廣2尺・長4尺。
細に縦横の系ありて、人皇の初より文亀・永正の頃までの編年にして大事を記せり。その中に喜楽(貴楽なるべし)彌勒などいう年号あり
紫銅香炉
1口。『文安五年五月三日源行吉』という銘あり(文安5年=1448年)。文禄元年(1593年)葦名家の寄付なりといひ伝う(葦名家は天正の末滅ぶ。伝わる所誤りあるべし)
横笛
2管。
一管は漢竹と號す。大永5年(1525年)葦名盛安の寄付なり。
一管は神楽笛と號す。文明13年(1481年)黒川大町佐野七郎忠重という者の寄進なり。
王鼻假面
2枚。赤塗と白塗の面なり
白女假面
1枚
老女假面
1枚
翁假面
1枚
馬假面
1枚。運慶作
牛假面
1枚。同上
鹿假面
1枚。同上
太刀
1口
甲冑
1領
以上14箇の神寶、天明3年(1783年)の火災に盡く燒亡す。
黄金灯篭
1箇。高1尺5寸、径8寸。
府下馬場町坂内宗澤という者の寄進なり
御正体円鏡
1面。径4尺。
天明3年(1783年)の災に罹り、欠損すれど今に存す。
その銘如左
奥州二宮 正一位伊佐須美大明神 大旦那 義清
大同四年巳丑
続日本後記に拠れば、この年号疑うべけれども、相伝えるままに記す
御正体円鏡
2面。
共に天明3年(1783年)の火災に焼亡し、今はその?なり。
1面は塩釜明神。径4尺。『 建武四年丁丑八月廿六日』という銘あり。
1面は八幡宮。径1尺。
その銘如左
貞和二年丙戌八月一日檢校
鬼氏久光
神主渡邊五郎源長
子息彦五定吉
藤原氏 女 大工圓阿彌
意趣者爲末代奉造立之處
額
1枚。長5尺5寸・廣2尺5寸。
『奥州二宮正一位伊佐須美大明神』とあり。
大納言孝親卿の筆なり
木造狛犬
2箇。運慶作という。
色紙掛幅
1軸。大納言藤原為家卿の筆なり
玉山講義付録
3巻。肥後守正之編纂の書。寛文7年(1667年)7月寄付す。
長柄銚子
1口。
神楽楽器
数箇。
右2品肥後守正容寄付。
神鏡
3面
古鼎
1口。。径2尺余
神輿
1両。方2尺2寸・檐7寸。
金銀の鉸具にて蓋に紋あり。
左3巴2引輛なり。
『大永六年丙戌八月吉日大旦那平盛安同盛常』という銘ありという。今は見えず。
神職
渡邊伊豫
その先渡邊四郎光房は内舎人従六位下渡邊綱が8世の裔にて渡場院北面の侍なり。光房が次男大和惟治当国に来り、その孫長門頼綱建暦の頃(1211年~1213年)この社の禰宜となる。6世の孫を近江長といい初五郎と称す。この時神職5員の内に入る。本宮八幡御正体に渡邊五郎源長とあるはこの近江が事なり。近江が8世の孫大蔵大輔則綱始て長官に任ず。則綱9世の孫を渡邊伊豫惟一則といい今の長官なり。昔は神主宮司験校より已下32員の神職ありて神宮寺という社僧もありしという。今の長官の外に13員の神職あり。
- 蒲原郡上條組室谷村 - 越後佐渡デジタルライブラリーの神社明細帳より御神楽嶽神社の記載をアップしてあります。
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- 会津高田町誌 - 伊佐須美神社について記載あり
- 延喜式(国立国会図書館)
- 伊佐須美神社(公式)
最終更新:2020年02月29日 05:48