| 祭神 |
伊弉諾尊・伊弉冉尊 |
| 創建 |
貴楽元年(552年)? |
延喜式、内陸陸奥国一・百座の一にて、祭神はすなわち
伊弉諾・
伊弉冉の両尊なり(神名帳には
会津郡の部に
載す。今は本郡(
大沼郡)に属す)。
縁起を案ずるに、この神元は明神嶽(冑組)に鎮座ありしが(大石組本名村博士峠と越後国蒲原郡小川荘御神楽嶽にもこの神鎮座ありしよしをいい伝う)、欽明帝 喜楽元年壬申(552年)この地に遷し祭れりという。
御正体に正一位の神爵を銘じ、大同4年(809年)の彫付(寳物の部に出す)あれども、【続日本後記】仁明帝承和10年(843年)『陸奥国伊佐須美神従五位下授け奉る』とあれば、大同の頃この神爵ありしには非ずその後正一位の贈爵ありし見ゆ。
後奈良帝天文12年(1543年)12月14日の位記今に存せり。
されば歳時の祭厳重にて四郡の内にもこの社の祭田戸多く神職もあまたありしが漸々に衰廃せり。されど天正の頃(1573年~1593年)までは高田・長尾2ヶ村にて300貫文の社領ありしを、同巳丑(1589年)伊達氏の乱にこれをも失えり。豊臣太閤の命にて住古より後正作田と称する所の地7段この社の領となれり。その後肥後守正之封を受けこの神の祀典にのり威霊の厳重なるを崇ひ30石の地を寄付し社屋をば府の修造とす。天明3年癸卯(1783年)また災に罹り神殿門廡共に焚燬とす。今の社はその後府よりこれを造営せり。
冠木門
南門の外にあるを正面とす。
両柱の間2間。左右に柵木あり。門外に馬止舎あり。
東西の透門の外にもまた冠木門あり。寸尺冠木門と同じ。
東西共に冠木門の外に馬止舎あり。
鳥居
冠木門を入て南門の外にあり。
両柱の間1丈2尺、明木造なり。
東西透門の内にも鳥居あり。
寸尺南の鳥居に同く。
都て三ヶ所にあり。
制札
南鳥居の外にあり。
南門
南の鳥居を入って本社にゆく正面の門なり。
3間に2間半。
門の左右に廊あり。祭りの時はここに警衛を置く。
この門の東の桁に『天文十八年甲斐國 武田信玄家來 武者執行同行三人 堀無手右衛門縄無理介澤是非介』と記せる題名あり。
内棟木に上山よりまさという6字あり。これは天正巳丑の乱に羽州上山領主義正という者政宗に従いここに来り、鑓の鉾に筆を約し馬上にてこれを題せりという。これ等の墨痕近頃までありしが、天明3年(1783年)の火災に焼失しその後府よりこれを造営せり。
薄墨桜
南門を入って左の方、本社の西南にあり。
高1丈有余、4方5、6歩を庇えり。4方に柵木あり。周10間計。
遷宮の頃よりありし神木なりと云う。
花は八重にして一重まじり。浅紅にして淡墨を含む。因ってこの名あり。
外の桜樹よりは少遅く、3月中旬の頃漸盛なり。
香気殊に深く花色最艶なれば、ここに来り花を賞するもの多し。
ある人の説に、この樹の名花なる事朝に聞えて隠なかりしかば大永5年(1525年)11月8日左小弁某に仰て詔書を賜わりしに、その書水雲紙に記されしにより薄墨の称ありともいう。
文明18年(1486年)6月の頃、この花開て春の如し。神職渡邊大和某が二子万寿丸とて、13歳なりしが和歌を詠ず。
君が世の 久しかるべき ためしには 伊佐須美よしの 桜木の花
その頃は乱世といい田舎の事なれば、童にてかかる口號に世に珍しかりしにや。葦名隆盛その夙慧を賞し、後には渡邊主殿光綱と號し、河沼郡台村にて永楽銭30貫文の地を領せりとぞ。
また、寛文5年(1665年)にも、6月18日の頃よりこの花開て春月の如し。
天明3年(1783年)の火に、この樹を焼いて已に枯んとせしが、今また繁茂して故の如し。
鐵華表
本社の前にあり。今は両柱折れて長7尺有余・周6尺5寸計の鐵の柱2残れり。
柱に各仏象1軀を隠起にし、礎石各1丈有余。その間3間計なり。
舊事雑考に明應元年(1492年)10月26日長峯越中という者建てるとあり。
また民間の言伝には、本郷東尾岐村の百姓佐藤某が先祖にて奉納せる鐵の藤蔵の圯廃せしなりぞと。何れがこれなることを知らず。
本社
3間4面南向。南に階あり。
東西を繚りて庇縁勾欄あり。
玉垣は東西より北に繚り、26間余。神体は1木にて刻めり。長4寸8分。また、同社に塩釜明神と八幡宮を配食す。
祭事は5月砂山祭、御田植祭、8月流鏑馬の類古風を存す。
また、3曲の神楽歌あり。左に記す。
錦綺帳
丹志喜廼登波里 古河禰乃瀬登乎 於之比羅幾 夜幣乃久母乎 惠伊和氣天 天良草舞也 天良草舞
阿知女作法(毎曲謡之)
安知面於於於於於於於氣安知面於於於於於於
十寸鏡
太神廼御影乎移白銅鏡 中爾曇半 惠伊須惠事刀杼面珥
安名手伸
安那多乃之 孤能彌可具良乃於登 安那多能志 古乃可武可遇蘭乃 惠伊淤等波知譽布流
幣殿
4間に2間。
拝殿
6間に3間、四面に庇縁あり。
奥州二宮伊佐須美太神社という額あり。従二位ト部連卿の筆なり
神供所
拝殿の西にあり。
2間半に2間。
東西に庇縁あり。
拝殿の住所に幅1間に長4間余の渡を架へ左右に勾欄あり。
神庫
本社の西北にあり。
2間に1間半。
四方に柵あり。周7間余。
囘廊
本社の前南門の東西にあり。
共に6間に2間。
祭禮の日は神官等東の廊にて斎す。
西の廊は祭の時雨の備とす。
番所
本社の西南にあり。
1間半に1間。
神職の者輪番する所なり。
東門
本社の東にて宮川の方に出る門なり。
1間半に1間。
宮川は本社の御手洗なり。
西門
本社の西にて社家町の方に出る門なり。
間数上に同じ。
この南に1間4尺に1間半の処あり。古札を納める所とす
井
2あり。
一は神供所の南、一は南門を入って右の廊の前にあり。
共に屋を構え三方に柵あり。
また南門の井に並んで盥水の所あり。
屋を架す。2間に1間半、石の盥を設く。
天満宮
南門の外、本社にゆく路の左にあり。
前に鳥居を建。
相殿(31座あり)
相殿
- 稲荷神 5座
- 伊勢宮 3座
- 荒神 2座
- 八幡宮
- 熊野宮
- 三島神
- 鹿島神
- 宗像神
- 山神
- 聖神
- 幸神
- 天神
- 天王神
- 塩釜神
- 石神
- 一王子神
- 七五三王子
- 十二神
- 八乙女神
- 鬼渡神
- 叶神
- 軍神
- 加武気神
- 権現
守従霊社
本社の東にあり。
元文元年(1736年)家老西郷源蔵近方を祭り末社とす。
鳥居・拝殿あり。
額に守住霊社と題す。文書博士菅原長親の筆なり。
高天原
本社の西南にあり。
1町四方の地にて本社の神輿を渡る旅所なり。
中央に本殿あり。
三方に玉垣を繚らし、前に弊社・拝殿・鳥居あり。
またこの中に相撲場あり。毎年8月16日随兵童子とて、童子を力士姿に造り相撲を取しむ。
また左右に二ヶ所の的場あり。祭りの日禮射賭弓を行う処なり
流鏑馬場
本社の西南高天原の北にあり。
東西1町35間・広8間余。
毎年8月16日流鏑馬を行う。
御正作田
本社より子丑(北~北北東の間)の方5町40間余にあり。
相伝て本社の神田とす。
文禄元年(1593年)豊臣家中村式部少輔を目代としこの地を検校し、上古已來の神田たるに因りこの社に寄付し免除地とす。その地7段余あり、不浄を入れざれどもよくみのるという(舊事雑考、康應2年(1390年)の記に伊佐須美に月祭田1500束とあるはこの御正作田のことなるべし)。
宮林田
本社の南にて高30石の地なり。この地昔は一藂の平林にて本社に属せり。
寛永12年(1635年)3月14日に本村に火災ありて民家残り少なく延焼せしにより、領主加藤式部少輔との林を伐て本村の家作とし新田を闢き高67石余の地とす。その地本村と永井野村の間にあるゆけ、村名を境新田という。
姥清水
本社の東北にあり。
3間四方計。北に流れて御正作田に灌ぐ。
旱魃にもこの水涸れることなし。
祭禮
砂山祭
本社の条下に記せる如く、毎年5月5日にこの祭あり。
塩土翁を祭るにより鹽土祭ともいう。
即5日の晨けに玉垣の内東北の隅に2の砂山を築き、一の砂山に幣帛を建てその前に机を置き香爐・燈明を設け海藻を始め種々の備物を供し神職長官進んで中臣秡三種大秡を誦す。外にまた神職1人鳥兜を冠り朱塗りの假面をきて槌を取り一の砂山に進む。禰宜1人また鳥兜に黒塗りの假面をきて八角に削れる3本の杭を砂山に建つ。神職槌にてこれを打つ。時に神秘の咒文あり。この時楽人皷吹調拍子を調べて神楽歌を奏す。その後神職長官祈念して祭事終わる。この塩土翁鹽を煎初め給いし時に效ふという。因てこの社の寶物に鐵杖の首の両岐なる者あり、これ上代の火箸なりとぞ。後嘉元元年(1303年)に寺入村に社を建てこの鐵杖を神體とし金跨大明神と號してこれを祭る。この鐵杖今はなし。
御田植祭
これも本社の条下に記せる如く、毎年5月の末6月の始、子午卯酉の日を撰びてこの祭あり。その式巳の刻に童子4人馬牛鹿獅子の假面を被り本社を三たび巡り、南門より村中の両頬の民家にかけ入り一軒ごとに後戸より前戸に出、御正作田に行き残りなく踏みならし、帰りに初過らざる家あれば前の如くかけ入り、本社に還り假面を納む。村中の兒童これに従て馳巡る。もし誤て過らざる家あれば、必ず禍ありとてこれを忌むという。
午の刻に及んで禰宜共圭冠・袍襖にて神田に往く。その行装の次第白子翁・黒子翁・白子女とて藁人形3を造り、男の姿は烏帽子狩衣・女の姿は菅笠帷子にて各假面を着せその外にも種々の人形ありてこれを先に立、田に往きて祭あり。その時催馬楽の詞あり。左に記す。
催馬楽十二段
太神宮能面佐布等氐都奈義於岐多類後座婦禰其一
御正田廼林田波高天原乃與伊止古路其二
太神宮能御田地八葦毛乃古満乎波也宇牽其三
佐耶氣喜也竹乃音乃草野氣幾其四
太神宮廼御手坪爾於侶寸豊乃千垂頴其五
廣田也安田也植留地乃多乃之幾其六
白良葦毛乃白能駒乎高天原仁繋汰其七
志那比太也之奈飛太也秋乃垂穂波八握穂丹其八
太神宮乃面佐布十低葦毛乃駒乎繋太其九
低田哉高田哉栽流多哿羅廼楽憙其十
曾于登入耶曾于登入耶與等入也竹濃長枝農素譽都伊連其十一
其十二闕
寶物
口宣案 1通
清龍寺の住僧智鏡が請にて再び賜りし所なり。その文如左
上卿 中山大納言 天文二十年十二月十四日 宣旨 陸奥国伊佐須美社 宣奉授正一位位記 蔵人権右少辨藤原經元 奉
※天文20年=1551年
勅額掛幅 1軸
天文20年賜る所という。表に『奥州二宮正一位伊佐須美大明神』背に『依勅命大納言孝新書之』とあり。
年代記掛幅 1軸
廣2尺・長4尺。
細に縦横の系ありて、人皇の初より文亀・永正の頃までの編年にして大事を記せり。その中に喜楽(貴楽なるべし)彌勒などいう年号あり
紫銅香炉 1口
『文安五年五月三日源行吉』という銘あり(文安5年=1448年)。文禄元年(1593年)葦名家の寄付なりといひ伝う(葦名家は天正の末滅ぶ。伝わる所誤りあるべし)
横笛 2管
一管は漢竹と號す。大永5年(1525年)葦名盛安の寄付なり。
一管は神楽笛と號す。文明13年(1481年)黒川大町佐野七郎忠重という者の寄進なり。
王鼻假面 2枚
赤塗と白塗の面なり
白女假面 1枚
老女假面 1枚
翁假面 1枚
馬假面 1枚
運慶作。
牛假面 1枚
同上。
鹿假面 1枚
同上。
太刀 1口
甲冑 1領
以上14箇の神寶、天明3年(1783年)の火災に盡く燒亡す。
黄金灯篭 1箇
高1尺5寸、径8寸。
府下馬場町坂内宗澤という者の寄進なり。
御正体円鏡 1面
径4尺。
天明3年(1783年)の災に罹り欠損すれど今に存す。
その銘如左
奥州二宮 正一位伊佐須美大明神 大旦那 義清
大同四年巳丑
続日本後記に拠れば、この年号疑うべけれども、相伝えるままに記す
御正体円鏡 2面
共に天明3年(1783年)の火災に焼亡し、今はその?なり。
1面は塩釜明神。径4尺。『 建武四年丁丑八月廿六日』という銘あり。
1面は八幡宮。径1尺。その銘如左
貞和二年丙戌八月一日檢校
鬼氏久光
神主渡邊五郎源長
子息彦五定吉
藤原氏 女 大工圓阿彌
意趣者爲末代奉造立之處
額 1枚
長5尺5寸・廣2尺5寸。
『奥州二宮正一位伊佐須美大明神』とあり。
大納言孝親卿の筆なり。
木造狛犬 2箇
運慶作という。
色紙掛幅 1軸
大納言藤原為家卿の筆なり
玉山講義付録 3巻
肥後守正之編纂の書。寛文7年(1667年)7月寄付す。
長柄銚子 1口
神楽楽器 数箇
右2品肥後守正容寄付。
神鏡 3面
古鼎 1口
径2尺余。
神輿 1両
方2尺2寸・檐7寸。
金銀の鉸具にて蓋に紋あり。
左3巴2引輛なり。
『大永六年丙戌八月吉日大旦那平盛安同盛常』という銘ありという。今は見えず。
神職
渡邊伊豫
その先渡邊四郎光房は内舎人従六位下渡邊綱が8世の裔にて渡場院北面の侍なり。光房が次男大和惟治当国に来り、その孫長門頼綱建暦の頃(1211年~1213年)この社の禰宜となる。6世の孫を近江長といい初五郎と称す。この時神職5員の内に入る。本宮八幡御正体に渡邊五郎源長とあるはこの近江が事なり。近江が8世の孫大蔵大輔則綱始て長官に任ず。則綱9世の孫を渡邊伊豫惟一則といい今の長官なり。昔は神主宮司験校より已下32員の神職ありて神宮寺という社僧もありしという。今の長官の外に13員の神職あり。
参照・補足
外部リンク等
延喜式 神名帳
会津郡二座 伊佐須美神社社 神明大
※
延喜式 10巻 - 国立国会図書館より
※延喜式の9巻・10巻に当たるものが神名帳で、ここに記載があるものを式内社と呼ぶ。
余談
本文に下記の記載があります。
この神元は明神嶽(冑組)に鎮座ありしが(大石組本名村博士峠と越後国蒲原郡小川荘御神楽嶽にもこの神鎮座ありしよしをいい伝う)
伊佐須美神社の奉遷と會津文化
会津大沼郡と越後東蒲原郡との境界に高さ4575尺の突兀たる霊山御神楽嶽が聳えている。この山は太古天津嶽と呼ばれた。天津とは万物生育の天つ神、即ち諾冊二神を指したものである。第43代元明天皇・和銅5年(712年)に出来た古事記に四道軍大彦命及び御子武渟川別命此地にて会合されし故相津と呼ぶとある。但し、題42代文武天皇・大宝年間(701年~704年)に相津を会津に改めた。大彦命の子孫長く此地に留まり、諾冊二神並びに大彦命を祀り、神楽を奏して神霊を慰めたので御神楽嶽と名づけられた。御神楽嶽山頂水昌ヶ峯に伊佐須美神社の石祠がある。この祠は越後平野に面する。これ恐らく大彦命が越後を平定し、その鎮護として祀ったのであらう。この山頂は現に越後分である。越後からの登山は東蒲原郡西川村室谷からで頂上迄約二里ある。津川から室谷迄は約六里、昔から室谷川を上下する船の便があった。津川から約二里離れた西山に諾冊二神を祀れる古志神社がある。創設の年代頗る古く、後世津川に奉遷された。又第16代仁徳天皇16年越後上條村に諾冊二神を祀れる熊野神社が創建された。約200年前西山日光寺の僧学道が御神楽嶽山頂に登り垢離を取り、国家安隠を祈った處に学道霊神の四字を刻んだ磨崖の碑がある。又年代不詳なるも西山古志神社神官大竹光保が奥社建設と石祠に刻んである。此等は伊佐須美神社が越後と深き関係を有する一例である。
会津側からの登山は大沼郡本名村からで、約2里離れた三条を通り三条から約5里にして山頂に達する。この小部落三条は越後三条から移住したと言われる。又本名村字寺岡から多数の縄文式や弥生式の土器が出土した。「会津石譜」には御神楽嶽山頂から弩が発見されたとある。此等を合考すると寺岡は御神楽嶽を越えて太平洋岸と日本海岸とを連絡した古代文化の中心地と考えられる。一説に大彦命は越後新発田付近から会津に入り、武渟川別命は白河から会津に入ったと言はれる。兎も角登山者にして歴史に関心ある人は御神楽嶽は古代越後から会津に通じた要路であったと認めている。本名の「名」は村邑の意味で、本名とは会津村邑の本と説明される。越後と会津の通路には六十里超と八十里超とがある。六十里超は今でも危険な峠で人通りは極く稀である。八十里越は現在の通路で、此等の峠の名は治承4年(1180年)高倉宮以仁王が八十里超を経て会津から越後に落ち延びられた時に命名されたと言う。然してこれ等2つの峠は神社と伝説とを缺く故に大彦命が会津に入った通路とは考えられぬ。この外に阿賀川を遡上して会津に入ったと信ぜられるが、これ又神社と伝説とを缺く上に、約二千年前の通路としては不合理である。僅かに二百年前位ですら阿賀川は頗る難所である事が「越後名寄」其他に記されてある。但し第88代高倉天皇時代(在位:1168年~1180年)東蒲原郡小川荘75ヶ村を恵日寺衆徒乗丹坊に与えられ、会津と越後との交通が阿賀川に沿うて行はれた事は確かであるが、薮や林の中を通り、主として峰伝いであった。銚子ノ口、鹿ノ瀬、山崎の隘口などを考えると古代阿賀川の舟筏い依る交通は到底想像されぬ。上野尻西光寺に約400年前の伝説がある。それは越後から会津に入る旅人が子供を連れて上野尻の付近で道を失い、付近の最も高き山頂に登って方角を知らんとしたが終に病身の子供を失い、西光寺に葬った事である。これは当時旅人は道無き道を通った事を証明する。
天文年間(1532年~1555年)の白髭の大水の際、宮下、名入、柳津一王町に着水した記録がある。これ当時只見川の川底は現在より数十尺高かったからである。これは当時阿賀川には瀑布か又は大急流のあった事を証拠立てる。
太古会津は大湖で何時の頃か耶麻郡山崎村の地峡決壊し水は漸次減退し、大湖は変じて濕潤な沼澤と為り、次いで樹木鬱蒼として晝猶暗く、雲霧常に立ちこめ、此地一帯を「霧ヶ窪」と呼ばれた。猫魔獄の噴火に依って湖水が両断され、一は猪苗代湖として残り、他は葦芦の生えた盆地と化した。大沼河沼の郡名これに依って起ると云う。最近坂下町付近から天然瓦斯噴出の為めボーリングの調査に依り湖底たりし事が照明された。此等に依って考うるに二千年の昔現在の会津平野に大彦命が入る事はあり得ない。
当時の越後平野はどうであったか。第70代後冷泉天皇康平3年(1060年)5月取調べの越後図や第73代堀河天皇寛治3年(1089年)7月越後図や、越後沖蓄層図を比較して見ると、約二千年前の越後は現在の新発田、松村、新津、三条、長岡、小千谷等は海岸で、対岸遙か弥彦山は細長い半島に高く聳えた。この間は漂泛たる内海で、蒲原郡即ち神原の大半は海で、村松、五泉あたり迄潮が寄せていた。
約二千年前御神楽嶽山頂に登ったと想像せよ。先ず丸木船に乗り、彌彦半島を廻り、内海に入り、阿賀川を遡り、支流室谷川を登って室谷に至り、御神楽嶽に登れば、会津平野は紺碧の大湖で、磐梯山の噴火は天空を赤め、那須山又盛んに煙を噴き、西方、宮下、檜原等は平野で只見川は緩く流れた。飯豊山は白雪を雲表に輝かし、博士山は指呼の間に聳え、遙かに駒ヶ岳はその偉容を示している。会津を平定し、祭政を司るには先づ此等の山々に天津神を祀るのが第一である。又反対に耶麻郡山都付近から明神嶽を眺めて見るがよい。その後少しく右よりに博士山が聳えている。又少しく右寄りに遙か後に御神楽嶽が聳えている。この三霊山を貫く直線は又会津平野を二分して軈て磐梯山に突き当たる。
当時会津の蛮族は古志族、アイヌ、土蜘蛛等であった。これ等の帰順を共に御神楽獄山上の伊佐須美神社は先づ博士山への奉遷された。その通路は神社と当時の部落と、口碑伝説に依って推定できる。即ち本名寺岡、川口、沼沢、大谷、砂子原、牧沢を通過された。
御神楽嶽山頂には前述の学道霊神の碑があり高さ尺余、此処平地なれば昔祭祀の行われた處と思はれる。又此処に大同年間(806年~810年)磐梯山恵日寺の僧徳一が登山し、南方会津五郡を正面にして祭壇を設け、護摩炉を設けし処と云われる方五尺許りの草木生えざる場所がある。側らに古杉一本、幹短大にして枝長く茂る。これを神子杉と名づけらる。又側らに御田池と呼ばれる田形にして方3間許り、別名田代池がある。自然生の稲草ありと言伝えられるが、似て非なるものなりと云う。高田伊佐須美神社の御田殖祭と合併考う可きである。此処を向御神楽と称し、此処より数十間登って水昌ノ峯がある。此処に伊佐須美神社の古祠がある。又十数丁離れた処を前御神楽と云われ、二峯相対峙する。又東南の峯を伝って数丁下れば又池がある。長方形にして長さ約20尺、幅約5尺、水深尺余、水色赤味を帯ぶ。雨乞いする者假小屋を設け、水浴して祈願すれば必ず降雨すると云う。高僧徳一が霊山を利用し、佛教を広めた事は此処許りではない。磐梯山、飯豊山、駒ヶ岳、明神嶽、御坂山等皆それである。
伊佐須美神社は御神楽嶽から四方に奉遷された。第一は博士山、第二は御坂山、第三は横田村、第四は駒ヶ岳である。但し西方及び横田では伊佐須美神社と呼ばないで伊夜彦神社としてある。伊夜彦神社は祭神が天香護山命である。これは後人の誤りで、征服された民族の神が合祀されたり、神官の不注意か又はある神社の祭神の異説を取り入れた為めらしい。例えば越後弥彦神社の祭神は大彦命らしいが諸説粉々として人を惑わす。今西方伊夜彦神社が明らかに伊佐須美神社であることを証する。「西方正統記」「山内事跡考」「滝谷組神社祭祀」其他の文献に依ると、太古御神楽獄水昌ヶ峯から伊佐須美神社が御坂山に飛び移られ、第101代後花園天皇宝徳元年(1449年)7月19日御坂山大高寺長祐法印、山神の託に依り、大石田高尾原に遷し、高尾神社として祭られた。其後第102代後土御門天皇明應2年(1493年)西方に遷すとある。然るに天保の頃(1830〜1844年)西方伊夜彦神社祭神は天香護山命として神祇局に届けられた。これに依って見ると、此地方の伊夜彦神社は悉く伊佐須美神社であると断定し得る。伊夜彦神社が西方横田共に越後より奉遷されたとの多くの文献があり、伊佐須美神社御神輿通過の道筋に多く祀られ、西方に於ける如く明らかなる錯誤を指摘し得るに至っては最早疑う余地が無い。但し天香護山命を合祀されたとならば異論はない。
越後及び会津に多い腰王神社、五社王子神社、古志神社、熊野神社、三宅神社、小布施神社、伊夜彦神社等は皆伊佐須美神社である。その主なる一例として飯豊山頂の神社の祭神は第36代孝徳天皇白雉3年(652年)五社王子神を祀ると文献にある。然るに後代神佛混淆して佛天に変わった。五社王子は古志王で元来先住民古志族の信仰した神が、大和朝に帰順して大彦命を祀った。これと同じ様に半在家には有名な古四王神社がある。
(以下略)
最終更新:2026年02月03日 22:34