大沼郡大谷組芋小屋村

陸奥国 大沼郡 大谷組 芋小屋(いものこや)
大日本地誌大系第33巻 61コマ目

府城の西に当り行程7里17町余。
家数11軒、東西33間・南北1町20間、山間に住す。
東は中川に()ひ南北に田圃(たんぼ)あり。

東2町7間大成沢村の山に界ふ。
西8町48間冑中村の山に界ふ。
南3町7間大成沢村の界に至る。その村まで6町10間余。
北8町18間冑中村の界に至る。その村まで20町10間余。

この村の名主市之丞という者、上杉氏・蒲生氏・加藤氏の時の證文38通を蔵む。今その1、2を下に出す(※略)


山川

中川

村東20間にあり。
大成沢村の境内より来り、北に流るること29町冑中村の界に入る。

関梁

村南3町余、中川に架す。
長9間・幅8尺。
隣村の通路なり。

神社

赤城神社

祭神 赤城神?
鎮座 不明
村中にあり。
鳥居拝殿あり。砂子原村三浦大隅これを司る。

寺院

地蔵堂

村中にあり。
創建の年月詳ならず。
村民の持なり。





余談:中川
現在の滝谷川の事
芋小屋地区の南側で東から合流するのは杉山川

余談:赤城神社
会津正統記に、
後柏原天皇永正十年癸酉会津大沼郡金山谷芋小屋邑に赤城明神の祠建
とあり(永正十年:1513年)


柳津町誌

柳津町誌より一部引用
  • (1)村の発祥
 村の発祥は村の周辺の住居跡との関係を無視することはできないだろう。村の北方滝原との境を字岩沢と呼ぶが、三十年前開田工事の時、土器・石棒と思われるものの破片・消し炭等生活遺品が発見されており、先住民の住居跡と考えられる。
 昭和四十九年十二月県道滝原地内の道路開削中地下二メートルから壷と石数個が出土した。工事中だったので原形を留めることが出来なかったが、これは炉跡であったろうと推定される。また居村の西方今は水田となっているが、開田事業の時いくつかの柱跡があったという。これは竪穴住居跡と考えられるだろう。いずれも清流に沿った地域であり、山続きであることは狩猟を業とした先史時代人の生活居住地として好適であったと思われる。
 こうしてみると、その範囲は滝原から居村の西方にまで広範な地域に亘っており、従って住居跡は右の外にも今後発見される可能性があると思われる。縄文中期から後期であろうから、少くも四千年前この地域に先住民が居住していたことを意味するものである。これらの住居と現在の村落との直接的なつながりは考えられないが、人類が生活するに適地であったことが、村の発祥につながるものであろう。
 縄文時代から今の先祖が土着するまでの時代については知ることができない。これについては第二章歴史編で詳述してあるから参照されたい。

  • (2)村名の起り
 村名の起源であるが「芋小屋」の名は特異な感がする。砂子原村・大谷村などは自然の変化により起ったものとして享和年間の地志書上帳にこの由来が記されているが当村の場合、山川の変化によるとは考えられない。前掲の巻物には、
「今野高野村と名付候事ハママ光法大師様高野山御見立日本国中御順見之時高野山ニ御立被レ成」
と博士山を高野山に見立てたことを記している。こうした七谷七峯の高野山見立物語は南会の館岩村や会津高田町にもある。しかし、「弘法大師は会津には来なかった」(『古代会津の歴史』)とされている。
ともあれ「今野高野村」と名付けたのである。『新編会津風土記』に、
「此村の名主市之亟と云者、上杉蒲生加藤氏の時證文三十八通を蔵む、今其一二を下に出す」
として慶長三年(]五九八)の文書の中に、
「大沼郡八重山の内いものこうや村」
と記されている。しかしこれより早く文禄三年(一五九四)の村高目録には「芋之小屋」の名が見える。「今野高野」がいつの時代にか「いものこや」と呼ぶことになったものであろう。芋の貯蔵の適地らしい条件があったのか、柳津町野老沢のように山芋との関係があったのか「芋小屋」の文字を用いた由来は解明するに至らなかった。
つまり「今野荒野村」が訛って「芋小屋村」となった

参照
最終更新:2024年11月20日 23:59