大沼郡大石組大石村

陸奥国 大沼郡 大石組 大石(おほし)
大日本地誌大系第33巻 67コマ目

府城の西に当り行程12里31町。
家数28軒、東西1町30間・南北2町7間。
西派只見川に()ひ東は山に()り南北田圃(たんぼ)なり。
村中に官より令せらるる掟条目の制札あり。

東25町・南10町50間、共に河口村の界に至る。その村は南に当り13町50間。
西3里余本名村の山に界ふ。
北9町10間板下村の界に至る。その村まで9町30間。

端村

下井草(したいくさ)

本村の西3町にあり。
家数3軒、東西13間・南北20間。
西は山を負い東は只見川に臨む。

山川

若杉山(わかすきやま)

村より申(西南西)の方1里にあり。
頂まで20町余。
松杉多し。

只見川(たたみかわ)

村西40間にあり。
河口村の境内より来り、戌亥(北西)の方に流るること13町板下村の界に入る。
広100間。

神社

八幡宮

祭神 八幡宮?
相殿 山神
   伊勢宮
鎮座 不明
村北にあり。
鳥居拝殿あり。
河口村渡部丹波が司なり。

稲荷神社

祭神 稲荷神?
鎮座 不明
村中にあり。
村民の持なり。

旧家

中丸新右衛門

この組の郷頭なり。
9代の祖を新右衛門俊朝といい横田山内の一族新蔵人俊重が子なり。代々横田城下中丸という所に住す。
天正17年(1589年)伊達政宗会津を攻る時、山内氏勝河沼郡塔寺まで出馬し葦名没落の事を聞き評議区なりしが、俊朝等が異見により一先在に帰る。その後方便りて政宗に降り逃帰て兵を起し、政宗が将大波玄蕃と戦うに及て軍謀密計与らざることなし。
上杉の諸将来り救ふ。氏郷再び横田城に入り軍勢を分て本名の敵を攻る時、新左衛門・須佐大膳・石伏監物と水軍の将として只見川を下り岸に上て伊達勢と戦う。俊朝衆軍に抽て進む。敵鎗を以て俊朝が大股を突く。俊朝少もひるまず突れなが当の敵を討取りてその後鎗を抜く。味方俊朝の勇気に励まされ奮戦て敵兵大に敗走る。
その後豊臣家政宗を長井に移し会津仙道を蒲生氏郷に賜ひ氏勝旧領を失い流浪せし後、俊朝熟々な思いけるは、本家数代の伝領を失い氏勝東西に漂泊するはみな政宗が所為より出死を以てこの怨を報はずんば有へからずとて、長井に往き密々に政宗をねらいしに、人の為に怪しまれ志を遂ず、故郷に帰り憤て自殺す。
その子左馬烝俊家という者本村に移るという。