河沼郡代田組原村

陸奥国 河沼郡 代田組 (はら)
大日本地誌大系第33巻 91コマ目

慶長10年(1605年)古河信濃という者開くという。

府城の北に当り行程1里7町。
家数11軒、東西53間・南北44間。
四方田畝なり。

東は村際にて六町原村に界ふ。
西2町50間会津郡高久組木流村の界に至る。その村は申(西南西)に当り4町50間余。
南2町10間藤倉村の界に至る。その村は辰巳(南東)に当り8町20間余。
北1町2間六町原村の界に至る。その村は丑(北北東)に当り7町30間余。
また亥(北北西)の方50間新屋敷新田村の界に至る。その村まで6町20間余。

神社

伊勢宮

祭神 伊勢宮?
相殿 稲荷神
勧請 元和7年(1621年)
村西1町30間にあり。
鳥居幣殿拝殿あり。大和田村佐々木右京が司なり。

旧家

古川瀧吾

この村の肝煎なり。その家系に拠るに、先祖は古河公方家の裔にて重郎左衛門季氏とて信州に住し上杉氏に従う。後信濃守と改名し越後に移り7000石の地を領し景勝新発田陣の時*1功ありしとぞ。その後景勝に従い会津に来り安積郡赤津村に住し7400石の地を領し、景勝羽州に遷されて浪々の身となり、慶長7年(1602年)郎等引具(ひきぐ)し駒板村境内の地蔵河原という処に暫く住し70石の新田を開き、同10年(1605年)郡山村の境内に200石の地を開き屋敷を構え原村と名け1村を知行し民戸も10軒に余れしとかや。加藤氏の時この村の高40石の役を免じ与ふ。その時の文書今に持伝う。また先祖の物とて武具・差物等の朽損じたるを蔵む。代々この村に住し肝煎を勤む。今の瀧吾はその裔なり。