河沼郡代田組藤倉村

陸奥国 河沼郡 代田組 藤倉(ふちくら)
大日本地誌大系第33巻 91コマ目

府城の北に当り行程1里。
家数28軒、東西3町・南北1町18間。
四方田圃(たんぼ)なり。

東2町18間駒板村の界に至る。その村は丑寅(北東)に当り8町40間。
西5間余槻橋村の界に至る。その村は戌亥(北西)に当り1町50間余。
南58間倉道村の界に至る。その村は巳(南南東)に当り3町余。
北5町15間塩庭村の界に至る。その村は子丑(北~北北東の間)に当り8町余。
また戌亥(北西)の方3町27間原村の界に至る。その村まで8町20間余。

村西に米沢裏街道あり。

小名

難波野(なにはの)

本村より4町30間戌亥(北西)の方にあり。
寛政3年(1791年)闢く。
家数6軒、東西58間・南北1町12間。
四方田畝なり。
米沢裏街道の西に住す。

山川

金山川(かねやまかわ)

鹿島川(かしまかわ)ともいう。
村に地1町余にあり。
広2間計。
駒板村の境内より来り、7町50間余西に流れ槻橋村の界に至る。

大工川(たいくかわ)

村北2町余にあり。
広2間計。
塩庭村の方より来り、西に流ること7町計槻橋村の界に入る。

神社

稲荷神社

祭神 稲荷神?
勧請 康元元年(1256年)
村中にあり。
康元元年藤倉三郎盛義勧請せりと云う。
鳥居あり。村民の持なり。

赤呂神社

祭神 不明
鎮座 不明
村中にあり。
祭神及び鎮座の年代詳ならず。
鳥居あり。延命寺司なり。

寺院

地蔵堂

村中にあり
4間四面南向き。
地蔵の座像長8寸、春日作という。
何れの世のいかなる人の開基ということを詳にせざれども、世の伝わる所は大同年中(806年~810年)の創立なりとぞ。
巨宏の構にあらざれど近世の栄作とは見えず、俗に呼て二階堂という。
堂中に松平下野守忠郷の筆跡とて貞享の頃(1684年~1688年)まで左の墨痕ありしとぞ。
郡丹後いつくしさとは承候得共、おとにまてきゝてめにはみす、はかなの心まよいや、なま事のいろをみてたにも、世はみな夢の人〻そと、おもいすつへき事

1口あり。
径2尺1寸、『寶曆九巳卯夏本願主淺野村束原八郎兵衛俊孝』と彫付あり(寶暦9年=1759年)。
また境内に断碑(だんぴ)1片あり。用水堀の中より移せしという。2尺に1尺計の石なり。上に梵字3字あり、下に『康安元年六月』と彫れり(康安元年=1361年)。

別当延命寺

本堂の東に並べり。
真言宗にて地蔵菩薩の霊場なるにより伽羅陀山延命寺という。
この寺往古より地蔵の別当職にて開基詳ならず。されども世の伝わる所は大同年中の創立なりとぞ。その後頽破(たいは)せしを、延久の頃(1069年~1074年)承惠という僧中興せしが幾程もなくまた衰えしを、天文中(1532年~1555年)賢長という僧修補せりという。賢長が後住賢海当寺より笈川組勝常村勝常寺に移居せしにより今に至てなお末山なり。
本尊大日客殿に安ず。

古蹟

館跡

村中にあり。
遠江守盛連の三男藤倉三郎左衛門盛義(一に盛康に作る)ここの住すという。今は民家となれども三面に土居の形存す。
盛義の事跡(じせき)及び子孫の事詳ならず。

難波池

村東にあり。
池の形僅かに残れり。
皆鶴の古墳とてその傍にあり。一夫の役を免じその墓を守らしむ。
相伝う。昔源義経鬼一法眼の家に伝わる兵書を学ばんことを欲すれども法眼惜て伝えざるにより、その女皆鶴に通じ(ひそ)かにその書を写し取て奥州平泉に趣けり。皆鶴その跡を慕いこの村に尋ね来り義経の行方を問う。所の者義経ここを去て既に5日を経たり、行先は山路けわしくして及ぶべからずと言うを聞き身をこの池に投ぜり。義経大寺にてこの事を聞き急ぎ還てなきがらを池の邊に葬り墓を築て去れりという。後人これを憐み、難波寺という一宇を営みてその菩提を弔いしという。
(当村延命寺に伝わるは、義経の妾この地に至り義経高館にて終わると聞き身をこの池に投て死せるに因り、後人憐で一宇を建て居鶴山難波寺と名けしという。按ずるに鬼一法眼及び皆鶴が事東鑑・平家物語・源平盛衰記等に見えず。ただ義経記にその事あれども、法眼が女義経に分れて後なげき死にたりしとありて皆鶴という名もなし。またその趣とも違へり)
今村の東30間計にその寺の遺址といい伝うる所あり。今は畠となりき。
池の傍に古碑1基あり。自然石にて高4尺計。面に『广广(2字分明ならず)五年二月』と彫付あり。
また新に刻める碑あり。其の文如左(※略)。

鏡山

村より7町余東にあり。
皆鶴鏡を埋めし所をいう。
今畠となりその跡僅かに存す。