この村寛文中(1661年~1673年)まで転訛して桁宮に作れり。
府城の西北に当り行程4里。
家数27軒、東西2町15間・南北1町10間。越後街道に住し、西南北は山に倚り東は平地に続く。
村の未(南南西)の方、柳津道に一里塚あり。
東は村際にて
牛沢組塔寺村に界ふ。その村は寅(東北東)に当り2町40間余。
西3町20間・北4町、共に
船渡村の山界に至る。その村は西に当り17町。
南3町
塔寺村の山に界ふ。
また
未(南南西)の方15町30間
牛沢組大沢村の界に至る。その村まで22町10間。
小名
新田
本村の7町10間未(南南西)の方にあり。
家数2軒、東西40間・南北25間。
神社
気多神社
| 祭神 |
大己貴命・天活玉命 |
| 勧請 |
不明 |
村西山腰にあり。
鳥居拝殿あり。原村山田伊勢が司なり。
里老相伝て、源義経奥州に下向の時弁慶従来て笈の背板を奉納せしという。
また社傍に「弁慶かし」とて大かしの木ありしとぞ。今は枯れてわずかに存す。
参照・補足
- むかし高寺山繁栄のころ、現在の鐘撞堂峠の頂上東側に鐘撞堂があったと伝えられているが、その跡地は定かでない。そのころ通路は和泉から大坂を登って山頂伝えに高寺山に通ずる参道があった様に考えられる。
- また、今の鐘撞堂峠を越えて萩野や舟渡方面に出る道もあり、一方影取り沼の傍らを経て七折の急坂を越える道もあったので、追分という地名が見られる。
外部リンク等
村名について
大正12年(1923年)、塔寺村・気多宮村・坂本村・新舘村・船杉村が合併して八幡村が発足。
昭和30年(1955年)、坂下町・若宮村・金上村・広瀬村・川西村・八幡村が合併して会津坂下町が発足。
気多宮地区の社寺
法人番号公表サイトでは下記の登録がある
| 法人番号 |
商号又は名称 |
所在地 |
| 6380005008763 |
気多神社 |
河沼郡会津坂下町大字気多宮字船渡口176番地 |
| 9380005009024 |
妙運寺 |
河沼郡会津坂下町大字気多宮字船渡口175番地 |
| 3380005008799 |
山神社 |
河沼郡会津坂下町大字気多宮字与市沢308番地のロ |
6.神社
気多神社 祭神:大己貴命・天活玉生命 祭日:四月十五日(旧三月十日) 鎮守神。豊臣氏の臣、平野権兵衛が延宝二年(1674)この地に来た時に近江国水上より移したものと伝えられる。
7.寺院
北辰山妙雲寺 日蓮宗 明治十三年(1880年)七月十三日、身延山大黒堂より御分身創立。本堂、昭和五十一年(1976年)九月十日落慶。
地蔵堂 高寺下しの火除地蔵として信仰厚い。旧三月二十三日の夜は「おこもり」行事や、春の彼岸の終日の夜明けには「だんごまき」行事が続いている
伝承
気多宮の追分碑
旧越後路と柳津路の分岐点に立てられている高さ一米余の石の道標。「右是より越後路」「左是より柳津路」と。
書家の達筆さと石工の技量の優秀さを偲ばれる稀に見る碑文。
寄贈者は伏見の住人坪谷村兵衛。筆者は会津藩士鯨岡平右衛門。
元禄(1688~1704)頃の建立と伝えられる。
最明寺時頼公と殿中御腰の飴
気多宮名物飴という飴屋が大正末期頃まで続いていた。中でも「殿中御腰の飴」の由来は、今から七百二十年も昔のこと、最明寺時頼が諸国行脚の際会津の地にも足を運んだものか。会津坂下町には最明寺の伝説が多い。気多宮の飴屋の傘の下に腰を下ろして休んだので「殿中御腰の飴」と名付けた名物飴が出来たという。
影とり沼
むかし七折に行く途中に沼があって、このほとりを通る旅人の影が水にうつると、水中から大蛇が現れてその影を吸い取ったという。影を座れた人は必ず死んだので、人々は影のうつらないように廻り道をして通った。これを憂いた人々は蛇の嫌なしょうぶを植えて追い出した。この大蛇はのがれて沼沢沼の主になったが、やがて佐原義連に退治されたという。
最終更新:2025年11月18日 23:42