河沼郡牛沢組塔寺村

陸奥国 河沼郡 牛沢組 塔寺(たふてら)
大日本地誌大系第33巻 135コマ目

昔この村に金を(ちりば)めし壮麗の塔ありし(ゆえ)小金塔村といい、後塔寺村と改むという。

府城の西に当り行程4里6町。
家数88軒、東西5町57間・南北55間、西は山に連なり東は田圃(たんぼ)なり。

越後街道駅所にて坂下組坂下村駅より21町40間ここにつぎ、ここより29町45間坂下組船渡村野沢組片門村両駅に継ぐ。また2里3町40間柳津村駅につぐ。

村中に官より令せらるる掟条目の制札あり。

東3町5間坂下村青津組新舘村両村の界に至る。新舘村まで8町20間、坂下村は辰(東南東)に当り12町40間余。
西2町48間坂下組気多宮村の界に至る。その村まで2町50間余。
南6町52間杉村の界に至る。その村まで8町40間。
北6町25間青津組見明村の界に至る。その村まで10町余。

山川

水無(みつなし)

村南にあり。
広5間計、気多宮村境内の渓水流を合しこの村に来り、東に流るること12町40間余栗村堰に入る。

関梁

橋2

一は村東3町余、越後街道栗村堰に架す。
長7間・幅9尺。
一は村中清巖寺の前にあり。水無川に架す。
長8間・幅9尺。

水利

栗村堰

坂下村の方より来り田地の養水とし新舘村の方に注ぐ。

一は村の戌亥(北西)の方2町にあり。
周130間。
この堤は八幡宮新田養水の為に享保中(1716年~1736年)築く。
一は村より未申(南西)の方にあり。
周230間。

村東3町余にあり。
長2間・幅5尺。
栗村堰に架し水無川を引いて田地に(そそ)ぐ。

神社

八幡宮

村中にあり。
心清水八幡神社

寺院

観音堂

八幡宮の東に並ぶ。
7間半に6間、南向き。
千手観音の木像  長2丈8尺。
脇士28部衆の木像 共に長6尺7寸。

会津三十三所順禮の一なり。

相伝て、大同3年(808年)坂上将軍田村麿空海の勧めにより坂下組窪村の境内に1寺を草創し恵隆寺と名く。その時空海みつから彼本尊脇士及び弥陀薬師の像を作り併せて己が壽像(長2尺)をも刻みて本堂に安置す。
堂宇の巨宏壮麗いい計なかりしとぞ。その後いつの頃にか彼寺をこの所に移せり(窪村の条下と照らし見るべし)。
昔この村に金を(ちりば)めし塔ありしゆえ小金塔村といいしを、寺を写してより村名を塔寺と改む。
恵隆寺はもと真言の道場にて昔は八幡宮の社僧別当を勤しいや。長帳にこの寺のことを記すに当寺と書いてあり。また永正の頃(1504年~1521年)蛙田の満藏坊という者兼帯せしことも見ゆれば僧侶の司なるべし。然るにいつの頃よりか修験の司となり寺の名廃せり。今もその遺りにや別当の修験金塔山恵隆寺と称せり。また33幅の白布を縫い合わせ本尊及び脇士の像を描き斗帳とす。このもの昔よりかけかへしこと往々舊事雑考に見ゆ。今は大抵33年を期として改め作るとぞ。
慶長18年(1613年)の地震に堂頽顚(たいてん)せしを猪苗代湖中翁島に住みし興海という沙門この頃柳津村に存しが、観音の夢想有とて蒲生氏に請て別当覚傳というものを力らを(あわ)せ元和3年(1617年) に再興せり。その時の棟札今に存す。
堂内に賓頭盧(びんずる)の像あり。長1尺8寸。運慶作という。寛文中(1661年~1673年)古刹なれば修補を加ふ。
元和3年(1617年)再興せしときの文書1通別当金秀院が家に蔵む。
また鰐口1口あり。径3尺『奥州會津蜷川荘恵隆寺奉鰐口事永和三年丁巳大旦那平次郎』と彫付けありしとぞ。
今の鰐口は寛永4年に鋳造せしものなり。径5尺『奉懸御寶前金塔山恵隆寺云々』と彫付けあり。

二王門

本道の南にあり。
4軒余に2間余、南向き。
力士、長9尺2寸。運慶作という。
額に『高寺』とあり。筆者を知らず。

盥水所

本道の前にあり。
1間余四面の屋形なり。
(たらい)を設く。

三佛堂

本堂の前西の方にあり。
2間に1間半、東向。
弥陀薬師、共に長3尺の座像。空海作という。
また六地蔵の木像を安ず。

大日堂

二王門の前東の方にあり。
3尺四面、西向き。
本尊大日。
昔この所に金を(ちりば)めし塔あり。村名の因て起る所、小金塔というものこれなり。
慶長中(1596年~1615年)地震に(くず)れし故その後この堂を建しという。

弥勒桜

境内丑寅(北東)の隅にあり。
周1丈計。
極めて古木を見ゆ。里俗「たまねき桜」と称す。
年豊なれば花多しという。

寶物

千手観音板木 1枚
空海爪をもて刻みしとて爪切御影という。
錫杖 1柄
豪金と銘あり。長帳に永正8年(1511年)熊野那智の永海上人当寺に錫杖を寄進すとあるは、このもののことなるべし。
鎗 1本
鋒9寸径、柄1間余。柄に『源和四年納之興海』と彫付け、鞘の両面にも梵字の彫付けあり。
古文書 1通
その文如左(※略)

別当 金秀院

本山派の修験なり。
先祖は佐野又八郎俊重とて天正中(1573年~1593年)葦名氏没落の後牢人し修験となり覚傳と称す。その後本堂の別当となり相続いて今に至るという。

慈光院

村中にあり。
真言宗弥勒山清巖寺と號す。勝常村勝常寺の末山なり。
旧ここに弥勒堂ありて頽破(たいは)せしを、天文20年(1551年)宥仙という沙門修補を加え草庵を営み、弥勒仏を本尊とし客殿に安ず。

旧家

金子新十郎

この村の検断なり。また肝煎に金子新吉という者あり。
家系詳なることを伝えず。
八幡宮長帳に、金子弥次郎或いは和泉などいう者往々に見えしは彼等が祖先にて天喜中(1053年〜1058年)よりここに住せしという。
天正の頃(1573年~1593年)金子十郎という浪人し、その子和泉新に坂下組細工名村より野沢組野沢駅までの越後街道を開き、即村長となりしとぞ。その頃の文書2通新十郎が家に蔵む。
その文如左。
(※略)
金子新吉所蔵文書 2通。
その文如左。
(※略)


参照


外部リンク等

最終更新:2025年09月17日 16:26