河沼郡野沢組天屋村

陸奥国 大沼郡 野沢組 天屋(てんや)
大日本地誌大系第33巻 163コマ目

昔は満田という。長禄(1457年~1460年)中の合戦に山口大和忠春という者戦功ありければ、その賞にとて葦名氏この所を与えしより満田を以て氏としその子尾張忠勝という者の時永正中(1504年~1521年)村名を天屋を改しとぞ。
もと村北5町にあり。何の頃にかここに移す。

府城の西北に当り行程4里33町余。
家数24軒、東西5町30間・南北8町。
越後街道の北に住す。南北両頬にて本名天屋両村を分かち一村の如し。
山麓に傍て北は田圃なり。
村中に官より令せらるる掟条目の制札あり。

東2町20間片門村の界に至る。その村まで11町30間余。
西18町18間片門村の端村軽沢の地に界ひ束松峠を限りとす。
北3町隔り11町余に1町計の間、所をさだめず。幅2尺・深6尺計に地陥り年々かくの如しという。

山川

束松峠(たはねまつとおげ)

村端より西に登る越後街道の峠なり。
道をかぎちて本名・天屋両村の界とす(南は本名村、北派天谷村)。
坂の中程に一里塚あり。
麓より登ること18町10間余にして頂に至る。
寛永中(1624年~1645年)加藤家府城修造の時安座村の肝煎二瓶七左衛門という者初てこの道を開き大材を運送せしが、漸々に開けて終に往還となれり。
昔この峠の頂に3株の松あり相拘束するが如し。これを束松という。この松既に枯てより道の東2町計に1株の松生す。枝葉喬聳して菷をたてたるが如く先に枯し3株の松に似たるにより子束松といいしが、寶暦の頃(1751年~1764年)また枯ぬ。これより東北の方にまた1株の松生す。その枝皆空に向かう。側より見るに杉に似たり。これを孫束松という。尋常の松に比すれば景状殊に美なり。そのかみ北条時頼この村を過ぎし時
陸奥の 満田の山の 東松 千代の齢を 家つとにせん
と詠せしとて今に土人の口碑に伝う。
寛政4年(1246年)片門本名両村よりこの頂に茶屋2軒を構ふ。この所より東に望めば諸山遠空に連なり高低濃淡一ならず屏障(へいしょう)の如く環列し、沃野中に闢けて千村万落(せんそんばんらく)府城の四面に星羅(せいら)し、近き麓には坂下組高寺山南北に綿延(めんえん)し牛沢組の山に続き一帯の蒼翠(そうすい)殊にうつはしく見ゆ。
この山に産する早百合草味殊に美なり。また桔梗多し。

水利

堤4

一は村東20間にあり。
周3町10間、家下堤(いねしたつつみ)という。
一は村北12町にあり。
周6町10間、下沼堤(しもぬまつつみ)という。
一は村より亥(北北西)の方12町にあり。
周2町10間、栢原堤(かりははらつつみ)という。
一は村北13町にあり。
周4町、上沼堤(かみぬまつつみ)という。

寺院

阿弥陀堂

村北にあり。
草創の時代知らず。
村民の持なり。

古蹟

館跡

村より寅(東北東)の方2町にあり。
東西35間・南北28間。
三浦平太輔忠通より6代、山口次郎有綱が後胤山口右京亮維治という者の2男、山口大和忠春應永中(1394年~1428年)牢人して会津に来り葦名家に仕え長禄中(1457年~1460年)安積郡の戦功にこの所を与えられ住せしという。


  • Google Map
  • 束松峠(福島の山々)
  • 北条時頼(Wikipedia)
    • 鎌倉幕府の執権(寛元4年(1246年)~建長8年(1256年))
    • 嘉禄3年5月14日(1227年6月29日)~弘長3年11月22日(1263年12月24日)
  • 百合根(Wikipedia)
    • 一部の百合の根には毒が含まれています。食べる前に専門家に確認しましょう。
  • 天屋一坏館
    • さくしろさん、あの標柱どうやって見つけたの・・・

束松峠

旧越後街道です。昔は天屋本名両村の間を通り束松峠を越え、不動川沿いの道を西に向い縄沢村から野沢本町へと抜けていました。
縄沢村の記にもありますが、冬場不動川沿いの道は吹雪が厳しく旅人を苦しめていたそうです。青坂村に住む治兵衛という方が途中大畠(現:大畑)に集落を作り旅人を出迎えてくれたそうです。
※地理院地図(大正2年測図/昭和6年修正)

現在の旧越後街道(束松峠)はハイキングコースとなっており、途中三本松(束松)のエピソードを解説した案内板や一里塚の跡を見ることができるようです。そうそう、峠の頂上には峠の茶屋跡が残っているそうです。さすがに営業はしていませんが。



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