河沼郡野沢組縄沢村

陸奥国 大沼郡 野沢組 縄沢(つなさは)
大日本地誌大系第33巻 161コマ目

昔この辺湖水なりし時舟を繋ぎし所ゆえ舟繋沢(ふねつなきさわ)といいしとぞ。
渟水(ていすい)決して後、天正の初(1573年~)青津組東青津村より生江浩春(旧家の条下と併せ見るべし)という者主従18人この所に記て開墾し、浩春と家僕7人は今の村より戌(西北西)の方5町上町(うへまち)という所とまた東の方4町侍屋敷(さむらひやしき)という所と2区に住し綱沢村と名けしという(のこる11人は茅本村の地を新墾してその村に住し、今に高久党と唱るといえども茅本村にてはこの事を伝えず)。
寛永2年(1625年)今の地に移す。後正保中(1645年~1648年)縄の字に改む。

府城の西北に当り行程6里31町。
家数31軒、東西4町・南北1町。
越後街道を挟み山腰に住し、処々に田圃(たんぼ)を開く。

また村東21町20間余、越後街道の傍に家居1軒あり。大畠(おおはたけ)という。

この道端村冑石とて片門村の端村軽沢との間25町40間余を隔て更に人家なく行人吹雪に苦しむ。故に安永8年(1779年)青坂村治兵衛という農民この処を闢き往来の旅人を助く。

東24町28軒片門村の端村軽沢の地に界ふ。
西7町55間野沢本町に界ひ長谷川を限りとす。本町は酉戌(西~西北西の間)に当り19町10間。
南9町58間牛尾村の界に至る。その村は未(南南西)に当り23町50間余。
北8町30間茅本村の界に至る。その村は亥(北北西)に当り18町余。
また
辰(東南東)の方7町57間青坂村の界に至る。その村まで23町50間。
巳(南南東)の方13町15間程窪村の界に至る。その村まで19町30間。

この村越後街道に住し時ありて野沢駅を補い継ぐことありし故伝馬2疋の課役を免除せらる。今肝煎繁右衛門が家に慶長中(1596年~1615年)中野沢本町原町より贈りし文書を蔵む(旧家の部に載す。併せ見るべし)。

端村

冑石(かふといし)

ここより北に冑石という石あり。因て名くという。
本村も東8町10間余にあり。
家数7軒、東西15町間・南北1町10間、越後街道の南に住す。
山間にて西北に少く菜圃(さいほ)を闢き不動川に()ふ。
ここより東7町、横沢という渓水の側小高き処に入小屋という字あり。この所は昔往還の街道にてその頃伊藤掃部という山賊住せり。文禄元年(1593年)一人の旅僧この所を過ぎし時掃部衣装を奪わんとて立寄りしに、旅僧すこしも驚かず側の石上に端坐(たんざ)念誦(ねんじゅ)合掌せしに怪しくも掃部が手足縛せらるるが如し。掃部怒て秘術を尽せどもさらに動かず。(しばら)く有て(しきり)に恐怖の心生し汗出て惣身を濡らす。時に彼僧「汝いかなればかく如きや」という。その聲雷の轟くばかりに覚え
ければ、掃部苦しみに堪えず小聲になりてゆるしたまえという。僧曰く「凡て天地の間に得がたきは人身なり、然るに汝山賊を以て一生をあやまる、滅後地獄に堕て呵責の苦み日を指が如けん。今より後悪行を改め善根を修すべし」と論じければ、掃部一言に及ばす屈服す
僧また「これより汝が家に一宿せん。案内すべし」という時初て気を得、五体もとの如し。頓て入小屋に伴いしに終夜法を説て教導しければ、掃部信心肝にめいじ僧に向て「これより後はいかにして生計を遂べき」といいければ、僧の曰「汝未だ壮年なれば耕耘を務めて世を渡るべし」とて明る日黎明に出去ぬ。その後掃部本村の浩春が許に至てこの事を語りしに、浩春農具を与え且土地の高卑によって田圃を闢くことまで委く論じければ、掃部帰て新墾し遂にこの所を開きしとぞ。今なお入小屋に掃部が居住せし所なりとて礎石往々に存す。
旅僧は府下徒町浄光寺の開基教導なりとぞ。故に今に至てこの所は皆浄光寺の壇越なり。
またここより東越後街道に1里塚あり。

山川

冑石

端村冑石より子丑(北~北北東の間)の方2町10間余にあり。
高1丈8尺余・周4丈。形に因て名く。
慶長中(1596年~1615年)の地震に(しころ)ともいうべき所欠て今はその半を残せり。

不動川

上流を藤沢川という。
片門村の端村軽沢の境内より来り切石川(きりいしかわ)となり、西に流れ青坂村の界より不動川来り注ぎ不動川となり、端村冑石を過ぎ村中に至て程窪村の境内より不動川来り、牛尾村の界より長谷川来り合し大槻川となり、転じて戌亥(北西)の方に流れて野沢本町の界に入る。境内を流るること1里5町30間余。広8間。
軽沢の界より冑石までの間両岸に奇石峙つ。釜石・壽字石・大字石・男根石等なり。みな形状をもて名く。
また一の巌窟あり。遠くこれを望めば観音の像現れ、近く望めばその形見えず。土人飛観音と称し小児の聤耳諸疾を祈て験ありとぞ。
この川中に盲淵(めくらふち)をいう所あり。わずかの淵なれどもその深さ計るべからず。村民の伝に昔この所に川童住しに、この村の農民喜四郎という者夏月この淵下にて馬に飲ひ家に帰て秣かはんとせしに、馬槽伏てあり起さんとすれども動かず。幸に隣家の農民居合せしかば力を合て引き起しけるに嬰児(えいじ)の如き者あり。怪て打殺さんとす。彼怪児人に向い「我は盲淵の住る川童なり。一命を助けなば長くこの村の人々をして水災なからしめん」といいにより放て淵に帰らしむ。さればにや、今に至て村民水災に逢者なしという。

沼2

一は村より亥子(北北西~北の間)の方7町計にあり。
周2町40間。舘沼(たてぬま)という。
一は村より寅卯(東北東~東の間)の方1里計にあり。
周1町。天沼(あまぬま)という。

原野

牧場

村東6町にあり。
東西15間・南北1町20間。
天正文禄の頃(1573年~1596年)浩春が従士ども乗馬を放牧せし所という。

関梁

橋3

共に越後街道にあり。
一は村中にあり。
長8間・幅2間、中橋(なかのはし)という。
一は村西7町50間余にあり。
長7間・幅7尺、徳蔵橋(とくさうはし)という。
共に不動川に架す。
一はその西長谷川に架す。また徳蔵橋という(野沢本町の条下に詳なり)。

水利

大堰

村より戌(西北西)の方にて大槻川を引き茅本村の方に注ぐ。

村より丑寅(北東)の方3町にあり。
周3町10間。寛永中(1624年~1645年)築く。倉沢堤(くらさはつつみ)という


神社

御稷神社

祭神 御稷神?
相殿 聖神 2座
   熊野宮
   若宮八幡
勸請 不明
村北50間余にあり。
鳥居あり。牛尾村沼沢治部が司なり。

冑神社

祭神 不明 兜鍪石
勸請 不明
端村冑石より子丑(北~北北東の間)の方2町10間余にあり。
祭神及び鎮座の初詳ならず。
側に兜鍪(とうぼう)に似たる石あるを祭りしという。
巨岩を穿ちその中に勸請す。
鳥居あり。村民の持なり。

寺院

廣谷寺

村北20間余山足にあり。
臨済宗靈雲山と號す。府下五之町實相寺の末寺なり。
開基の年代詳ならず。
もと村南1町30間山中にあり。寛永5年(1628年)今の地に移すという。
本尊地蔵客殿に安ず。

墳墓

古墳

村より未(南南西)の方9町40間森腰(もりのこし)という所にあり。
高3尺・周1丈5尺。
小島村の地頭成田右馬允某という者の嫡子中務某という者の妻の墓なりという。
天正中(1573年~1593年)大槻太郎左衛門叛逆を企てし時成田も一味せしが、大槻が軍敗して種子池淵に落行き自殺せしかば(野沢本町の条下を併せ見るべし)、成田が一族郎党そのあとを慕いこの所に至りしに黒川の軍兵に逢て討れし故ここに埋むという(小島村にてはこの頃を伝えず)。

古蹟

館跡2

一は村より酉戌(西~西北西の間)の方8町にあり。
金城館(かねしろ)という。
本丸跡、東西50間・南北30間。
ここより寅(東北東)の方40間に渓水を隔て二之丸跡あり。東西40間・南北20間。
天正中(1573年~1593年)金城加賀守景良という者住すという。

一は村西9町にあり。
向館(むかひやかた)という。
本丸跡、東西35間・南北1町。土居堀の形存す。
ここより巳(南南東)の方1町に二之丸跡あり。東西20間・南北37間。
大槻叛逆の色を顕わせし時景良黒川の命を受け築く所をいう。

石窟

村より巳(南南東)の方10町中山という所にあり。
昔は穴の中に8畳敷ほどの平ありしという。今は半崩る。
またこの辺往々に土器の欠たるを得ることあり。という。古穴居の跡なるも知るべからず。

塚3

一は村より丑(北北東)の方30町余にあり。
周4丈5尺。胴塚という。
一はその東20町計にあり。
周5丈5尺。首塚という。
一はまたその東15町計にあり。
周3丈5尺、足塚という。
共に高6尺。
元和中(1615年~1624年)この村と松尾村と山界を争い蒲生氏に訴えしに、両村とも入るべからずと裁断ありしを強いて訴えしかば、この村の次郎右衛門松尾村の清左衛門というもの2人野沢本町諏訪の社の前にて鉄火をとらしめしに、次郎右衛門(つつが)なかりしかば清左衛門を誅殺しその體を三分して埋め、この塚を築き山界を表せしという(この時この村より訴えし草稿と蒲生氏より与えし書3通あり。旧家の条下に出す)。

旧家

繁右衛門

この村の肝煎なり。
先祖は生江浩春とて天正の始め(1573年~)青津組東青津村よりこの地に来り主従18人にて田地を新墾し村を綱沢を名て居住す(境界の条下を併せ見るべし)。後生江を改め青津と称し大沼郡大石組沼澤村の地頭山内出雲守が女を娶りこの村の長たり。また四家老とて鳥毛・渡部・齋藤・長谷川など詳せしものありしとぞ(今村より辰(東南東)の方1町に取り鳥毛沢という所あり。四家老の1人鳥毛彦左衛門尉忠嗣という者居しところという)。
浩春が子次郎右衛門が時、この村と松尾村と山界を争て争闘に及び互いに死人許多(あまた)に至れり。元和5年(1619年)領主蒲生氏に訴えけるに、両村境目分明ならざれば鉄火をとぞて勝負を決すべし、然れども双方山林に乏しからざれば(かく)までにも及ぶまじ、互いに不入たるべしと裁断あり。けれどもなお相つのりて(しきり)に鉄火を願いければ野沢本町諏訪の社前に於いてとてしめしに、1村恐れてこれを取んという者なきに次郎右衛門勇気勃然として1村のものに向い「我事に従うべし。されども事卒らば耕耘の業なしがたかるべし。願わくば面々の助力にあつかるべし」と言て進出ぬ。松尾村よりも清左衛門という剛強の者出、共に禮服を着し掌中に熊野牛玉をささげ炉端に至る。役人さしよりて炎火の中より鉄火をはさみ両人の掌中に移す。次郎衛門はこれを受け三度まで載せて側なる三方に置きしに、清左衛門は鉄火を受るひとしく牛玉燃え上がり炎苦に堪えず忽ち(たちま)鉄火を地に投げして(たお)しかば非分にきわまり、(やが)て枝解して塚に築き永く山界を表せしむという。
その時の文書家に蔵む。左に出す。
次郎右衛門より6世にして今の繁右衛門に至る。そのかみ次郎右衛門に約せしとて、村民今に打寄て農業を助くとぞ。
今度村おくちにつゐて 出入り被申候に付而 いろいろ御せんさく之上ニ 両方ゟ駄ちん一切つけさせ申間敷と 御奉行衆御前にて相極候 若駄ちんつけ候を見合 其馬人共にかゝへ置可申候 それニつゐて 本村原町ゟ 天屋迄 御村おくりとゝけ可申候 但つな澤村ニハさし置申聞敷候 上下共ニ壹人も置申聞敷候 仍爲後日如件
 慶長貳拾年
  子六月廿一日   本町茂左衛門 判
           原町 平五郎 判
           同  彦衛門 判
           夫  助衛門 印
           同  清八郎 印
   綱沢村きも入 二郎衛門殿
   同      百姓衆上 参

一 綱澤山と松尾村山と境目横澤と申 谷水落かきりにて御座候 日影平と申は 綱澤山にて御座候 然処 去正月廿三日ニ 綱澤村の者共 彼日影平へ木切に罷出候所ヲ 松尾村之者共罷出 理不尽になたヲ取申候 次日廿四日に また罷出木ヲ切候へハ 松尾村ゟも 木切に出申候條 右なたを取かへし申候 松尾村は大郷にて御座候 綱澤は小村にて御座候へハ 理不尽成儀仕かけられ 迷惑仕候事
一 當月九日に 綱澤村の者共 彼日影平にて木を切申候所に 松尾村ゟ横澤谷ヲふみこし 大勢人数をもよほし かいをふき さいをふり参候間 横澤の者共 如何様成儀に候哉と 両人使ヲこし候へハ 其使を松尾村の者共 散々に打臥申に付而 不被帰候條 かさねて又三人遣候へハ 是も打ふせ以上五人のもの共を 散々に打擲至候 其内惣左衛門與十郎と申者は 定而今明日中に 相果可申候 於相果候は 松尾村のものをも 被仰付可被下候事
一 松尾村は大郷ニ候へハ 彼日影平ニ 畠のひらきヲいたし 道なとヲ付候て 日影平押領可仕たくみを仕候間 右之山へ 御検使ヲ御立 前代有来ルことく綱澤山に被仰付可被下候事
右條〻 屹度御せんさく被成 被仰付可被下候 以上
  元和五年貳月十六日   綱澤村百姓中
               二郎右衛門 判
    稲田数馬様
    町野長門守様 人〻申上

  以上
山稲川郡松尾村與 同郡綱澤村山出入ニ付而 双方目安口上 数度遂糺明候へ共 理非不分明候 然者御検使を可被出候間 理非決断之節は 彼論所日かけひら嶺くたり 横澤迄之間ハ双方立入間敷候 若背此旨立入候ハ〻 入候方まけニ可被仰付候條 可成其意者也
  元和五年        町長門守幸□(花押)
   三月十七日      稲数馬助貞右(花押)
    山稲川郡綱澤村肝煎百姓中

  以上
其両村鉄火就被仰付 最前境目見せニ被遺候 御奉行寺村清右衛門 幸田太郎兵衛 高倉太郎右衛門方被遺候間 其村〻逗留中両村ゟ賭可仕者也
  八月六日        稲数馬貞右 印
    綱澤村 松尾村 百姓中

山稲川郡綱澤村與 同郡松尾村山公事に付而 松尾村ゟは 鹿山之嶺 水行限に松尾村領と申候 綱澤村ゟは 牛か頭ゟ 横澤水行限に綱澤村領と申 双方目安口上数度令糺明 其上御検使を雖被遣候
境目不分明に付而 所詮鉄火之可爲勝負候 然者被負候方を 可被成御成敗候 併双方共ニ 山ニ闕事儀ニ而も無之と相聞候條 山境目令指図候て この通に境目相立澄し候様にと 申付候へ共 双方共ニ 不令承引 是非鉄火の勝負ニ可仕と申放 鉄火を取綱澤村火災被勝候 然間山境目牛頭ゟ 横澤水行限に相極り候 松尾村ゟ非分を申懸 鉄火被負候 前廉如申聞候 松尾村清左衛門を被成御成敗 境目上を杉之澤 下ハ外舟窪之前日向平と両所に頸塚ニ築 この塚末代之境目に極置候 松尾村へも右之旨申出候條 自今以後 可成其意者也 仍判状如件
  元和五巳未年八月廿一日 稲田数馬助貞右(花押)
    山稲川郡綱澤村肝煎百姓中


寶物

鞍  1具。文治中(1185年~1190年)右大将家奥州征伐の時勲功の賞に賜し物という。
鐙  1具。同上。
脇指 1腰。長1尺7寸。濱崎六郎為連という者より譲を受し物という。相伝ふ。昔三浦介下野国那須野の狐退治の時*1帯びし物にて常に枕刀にせしが、この刀の徳にて狐を退治せし故狐丸と名くという。
酒盃 1箇。金梨子地に金にて桐の紋あり。蒲生氏の与えし物という。
茶磨 1箇。同上。
茶釜 1箇。同上。
茶甕 1口。同上。
茶壷 1口。同上。
茶筌 1本。同上。
茶酌 1本。同上。
茶碗 2口。同上。1口は色白く、1口は色黒し。
馬書 1巻。蒲生氏郷より与えし物という。
椀  12具。5つ椀なり。加藤嘉明の与えし物という。
弓書 1巻。沼澤出雲守より得し物という。




余談。
頸塚はこの両場に作られたようですね。永年この場所を村々の境界線にするとの判決だそうです。
  • 杉之澤
  • 外舟窪之前 日向平
杉ノ澤の地名は残っていますが日向平はちょっとわからないです。綱澤山近くの日影平という地でしょうか?磐越自動車道の西会津トンネルが途中で一度外に出る場所があるのですが、ひょっとしたらその辺りなのかもしれません。
求む識者!
最終更新:2020年05月21日 15:04