もと今の地より南8町40間にあり。延寶2年(1674年)ここに移す。
府城の西北に当り行程9里余。
家数98軒、東西1町28間・南北5町41間。
西は山に倚り三方は田圃にて東は揚川に近し。
越後街道駅所にて村中に官より令せらるる掟条目の制札あり。
野沢駅より1里29町3間この駅に継ぎ、ここより8町13間
下野尻村駅に継ぐ。
東39間
耶麻郡吉田組橋立村に界ひ揚川を限りとす。その村は寅(東北東)に当り11町30間余。
西6町30間
下野尻村の界に至る。その村は戌(西北西)に当り5町20間余。
南19町52間
芹沼村の界に至る。その村まで25町40間。
北4町
吉田組柴崎村に界ひ揚川を限りとす。その村は丑(北北東)に当り8町余。
また
巳(南南東)の方11町5間
耶麻郡大谷組戸中村に界ひ揚川を限りとす。その村まで17町10間余。
端村
新田
本村の南2町にあり。
家居1軒、四方田圃なり。
山川
洲苅嶽
村より申(西南西)の方10町計にあり。
頂まで8町30間余。
山形孤立して衆峯に秀て路殊に険しく雑木繁茂せり。頂に4間に6間計の平かなる所あり。中程に小蜂森という所に少しの平地あり。往昔何人にか住せし所という。
古井あり。旱歳に雨を祈る所とす。
蝉峠
村より未申(南西)の方15町にあり。
頂まで31町計。
堀越・芹沼及び海道組白坂3村と峯を界ふ。
揚川
村東5町30間余にあり。
芹沼村の境内より来り、北に流れ西に折れ1里8町流れて
下野尻村の界に入る。
広2町10間。
小舟を以て大谷組・吉田組の諸村に通す。
水利
堤3
一は村より申(西南西)の方2町10間にあり。周2町2間、沢入堤という。慶安3年(1650年)に築く。
一は村より未(南南西)の方21町にあり。周1町40間、伊蘭沢堤という。承応3年(1654年)に築く。
一は村より申(西南西)の方11町にあり。周2町5間、宮沢堤という。明暦2年(1656年)に築く。
郡署
郡役所
神社
諏訪神社
村西4町10間余山麓にあり。
鳥居幣殿拝殿あり。
神職 清野飛騨
貞享中(1684年~1688年)助大夫易時というもの当社の神職となる。今の飛騨易辰は6世の孫なりという。
三社神社
祭神 |
不明 |
相殿 |
稲荷神 |
|
富士神 |
|
御稷神 |
勧請 |
不明 |
村より未(南南西)の方9町50間余にあり。
祭神及び勸請の年代知らず。
100余級の石階を升る。
鳥居あり。
神職 平野左仲
延寶の頃(1673年~1681年)にや、伊勢吉景という者当社の神職となる。今の左仲忠吉は4世の孫なりとぞ。
寺院
西光寺
村より未(南南西)の方1町40間余にあり。
浄土宗無量山と號す。江戸増上寺の末山なり。
何の頃に架光源という僧開基すという。
永正中(1504年~1521年)良然という僧中興す。
昔は寺産もありしが、慶長中(1596年~1615年)蒲生家の臣岡半兵衛重政この地を領せしよりこれを失うという。
客殿
8間に7間東向。
本尊弥陀。
鐘楼
客殿の東にあり。
2間に1間半。
鐘径2尺5寸、寛政8年(1796年)当寺26世運譽が時これを鋳る。銘あれども煩しければ略す。
蒲生氏郷影堂
客殿の巳(南南東)の方にあり。
2間四面、北向き。
氏郷の影像をかく。上に賛あり。その文如左。
奥州會津郡太守
幕下之諸老宿命
畫師繪昌林院殿高岩
忠公清容就予被需賛
語不濩拒辭漫綴 野
偈一章 以 應其責云
一曲樽前事雅遊醉花
吟月共風流人天瞻仰
英靈漢文武名高六十
州
維時元和七年辛酉五月七日
前妙心逸傳叟書
東光寺
西光寺の未(南南西)の方にあり。
浄土宗日出山と號す。西光寺の末山なり。開基の年代詳ならず。
もと村より未(南南西)の方5町にありしが、何の頃にか今の地に移すという。
本尊薬師客殿に安ず。
古蹟
館跡
村より戌(西北西)の方3町余にあり。
東西18間・南北19間。大崎館という。
何の頃にか薄石見頼包というもの築くという。
壇2
共に村南11町にあり。
一は高1間・周11間。往昔若松に信州諏訪を勧請せし時神輿を憩し所という。
一は高4尺・周8間。和尚壇という。来由詳ならず。
古川橋
村南5町10間余、大沼というわずかの堰水に架する橋なり。
土人古戦場のよしいい伝えれどもいつの頃何人の合戦ありしにか詳ならず。
余談。
西光寺のすぐ近くに末寺(東光寺)あれば合併しちゃうでしょうと思っていたら、やはり東光寺は現存しないようですね。
また大崎館ですが館主が薄石見頼包(薄石見守頼兼?)と判明しているにもかかわらず館の形跡がどこにもありません。会津古塁記や
全国遺跡報告総覧にすら載っていないのです。本当にこの地にあったのでしょうか?
さらに古川橋…どこなの?
最終更新:2020年05月26日 21:48