河沼郡野沢組野沢原町

陸奥国 大沼郡 野沢組 野沢原(のさははら)
大日本地誌大系第33巻 151コマ目

相伝ふ。野沢本町・原町の地、往古は湖水なりしが後水潰れて陸となりしかば濘水を決りて、まづ本町の民居を闢きまた嚝原につきてこの町をおきし(ゆえ)原町と名く。野沢の2字を加えしは町南に野沢という沢あるに因れり。
旧町より南の山腰に散居せしが、何の頃にか駅所となりし時ここに移すという。
寛永3年(1626年)蒲生家より毎年6度の市日を許せし文書あり。同9年(1632年)同11年(1634年)にも加藤家より与えし文書あり。共にその写しなり(下に出す)。中頃本町に立しにや。寛文中(1661年~1673年)撰へる風土記には本町の条下に註せり。今は漸々に衰え、ただ正月13日市始の式とて惣町の上下に別れ米俵を争う。これを米引きと唱え市神の祭あるのみなり。

府城の西北に当り行程7里20町。
家数124軒、東西6町30間・南北1町30間。
両頬に連なり東の方にてすこし南に折れまた東に転じ野沢本町の民屋に連なり
三方田圃(たんぼ)なり。
また中程より東北に出る小路あり。横町という。長2町30間。両頬に連なる。
また北頬の両端を新町という。寶暦13年(1763年)闢く。

越後街道駅所にて、町中に官より令せらるる掟条目の制札あり。

駅役はこの町と野沢本町にてつとめ、片門村坂下組船渡村両駅より3里5町17間ここに継ぎ、ここより1里29町3間上野尻村駅に継ぐ。また3里5町牛沢組柳津村駅に継ぐ。

西9町15間堀越村に界ひ安座川を限りとす。その村まで12町20間余。
南1里10町野沢本町に界ひ諏訪峠を限りとす。
北7町小島村に界ひ大槻川を限りとす。
また
未申(南西)の方20町55間中野村の界に至る。その村まで24町余。
申酉(西南西~西の間)の方13町10間牧村に界ひ中野川を限りとす。その村まで15町40間余。
戌(西北西)の方1町20間芝草村の界に至る。その村まで4町40間。

もと2の端村あり。
一は苦水(にかみつ)とて町より未(南南西)の方6町にあり。
一は如法(によほふ)とて町より未(南南西)の方12町にあり。
共に今は廃す。

また村の西に小径を隔て穢多の居所あり。
家数3軒、東西27間・南北21間。

(※市日の古文書略)

端村

四岐(よまた)

原町の南15町にあり。
家数2軒、東西15間・南北33間。山間に住す。
往古この地水湛し時は四岐(よつまた)船着とて舟楫(しゅうしゅう)のつどいし所という。
山間に住す。

山川

諏訪峠

町の南30町にあり。
頂まで3町20間余。
野沢本町と峯を界ふ。

大槻(おほつき)

町より丑寅(北東)の方2町にあり。
野沢本町の境内より来り、戌亥(北西)の方に流るること17町芝草村の界に入る。
広7間。
(さけ)(ます)・川ザイ・ザコ・(はえ)(やまへ)を産す。

田沢(たさは)

町の西1町20間にあり。
源2つ。
一は浅岐川とて野沢本町の境内より来る。
一は町の南山間より出、北に流れ四岐(よまた)川という。
二水合し宮田川(しやた)*1となり戌亥(北西)の方に流れ苦水川となり、その下流を十二滝(しふにたき)川といい(それ)より北に流れ村西を過ぎ田沢川となる。
凡15町流れ大槻川に入る。
広5間。

中野(なかの)

町より申(西南西)の方13町10間にあり。
中野村の境内より来り、北に流るること19町安座川に入る。
広5間。

安座(あさ)

町の西9町10間余にあり。
牧村の境内より来り、北に流るること10町芝草村の界に入る。
広7間。

関梁

橋2

一は町の西9町10間余、越後街道安座川に架す。長12間・幅2間、大橋(おほはし)という。
一は田沢川橋といい、町の西2町20間隣村の通路田沢川に架す。長7間土橋なり。

水利

町より未(南南西)の方15町にあり。
周2町10間、中丸沢堤(なかまるさはつつみ)という。
明和6年(1769年)に築く。

郡署

代官所

村の北頬野沢本町の界にあり。
役人を置き本組を支配せしむ。
上野尻村郡役所に属す。

倉廩

米倉4屋

町の北端にあり。
1屋は社倉なり。3屋は本組の米を納む。

神社

熊野宮

祭神 熊野宮?
相殿 鹿島神
   総社
鎮座 鎮座
町より丑寅(北東)の方50間にあり。
鳥居幣殿拝殿あり。修験大聖院司なり。

寺院

観音堂

町の南12町20間にあり。
7間余に4間余、南向き。
正観音を安ず。行基作という。秘佛なり。
この堂大同2年(807年)(舊事雑考には大同元年の記に載す)徳溢の創建なりしが、(しばしば)火災に罹りまた慶長16年(1611年)の地震に頽顛(たいてん)せしを、同18年(1613年)蒲生家の臣岡半兵衛重政建立す。その時の棟札寛文の頃(1661年~1673年)までありしが今はなし。写しあれば左に載す。また『如法寺貞和二丙戌年七月十七日』(貞和2年:1346年)と彫付けし鰐口1口ありしがこれも今はなし。
棟札の文如左。
  慶長十六辛亥年八月廿一日辰剋大地
  震有之御堂摧破攸
  右建立成就者大檀那是野半兵衛殿現
  世安穏後生善生一一如意所
 御本尊執金剛神 金剛山如法寺別當贈
  権大僧都頼譽
  一紙半文助成輩同遊九品蓮臺上生乃
  至有無両縁群類衆生平等利益
  同慶長十八癸丑年七月廿一日建立成
  就攸敬白

二王門

本堂の東にあり。
3間半に2間2尺、東向。
左右に力士の像を安ず。長1丈、運慶作という。

別当 如法寺

本堂の北にあり。
金剛山と號す。府下大和町金剛寺の末寺真言宗なり。
大同2年(807年)徳溢この地に観音を安置す。その時の創建という。
後元亨3年(1323年)8月修覆を加ふとぞ。

客殿

7間に6間、東向。
本尊弥陀。

鐘楼

客殿の前にあり。
鐘径1尺6寸享保3年の銘あり。もと『奥州會津野澤如法寺大鐘伏願皇家万歳檀門千秋幹縁緇素志願成就貞治二癸卯年七月日』(舊事雑考に10月日に作り下に比丘法羽謹誌の6字あり)と彫付けある古鐘をこの時改鑄るという(貞治2年:1363年)。

山王神社

客殿の巳(南南東)の方にあり。

弁天堂

客殿の辰(東南東)の方にあり。

寶物

大般若経。
今朽損して巻数さだかならず。この経巻を蔵めし唐檀(今はなし)に書付ありしという。舊事雑考にあれば左に出す。
 建仁元年八月三日於奥州會津書 永慶
   後住貞俊書次曰
 文明十五年十一月廿四日 貞俊卅六歳
 同十七年七月八日書畢  貞俊卅八歳
 野澤如法寺大般若経唐匱
永徳元年巳酉二月日
  大檀那 諏方祝部刑部三郎 森定
 地頭大槻長門守藤原 盛定
      住持 貞俊四十一歳

常泉寺

町中にあり。
天然山と號す。
天正4年(1576年)の草創といえども開基の僧を伝えず。
もと月光寺といいしが、後京師百萬遍の僧この寺に止宿(ししゅく)せし時末山となし今の寺號に改むという。
今に知恩寺の末山浄土宗なり。
本尊弥陀客殿に安ず。

常樂寺

町中にあり。
曹洞宗隆源山と號す。開基の時代詳ならず。
永禄中(1558年~1570年)火災に罹りしを慶長元年(1596年)この町の住但馬(姓氏を伝えず)という者再興し、越後国村松安養寺5世孝心を請て住持とし安養寺の末寺となれり。
本尊釈迦客殿に安ず。

般若堂

境内にあり。

墳墓

本海壇

町より未(南南西)の方4町30間にあり。
何の頃にか本海(海或いは皆に作る)という行人を葬りし所という。上に老杉1株あり。
相伝ふ。昔本海高燈籠揚しにその火もれえ1町焼失す。その後(しばしば)火災ありしかば、陰陽師をして占わしむるに本海が執念によりてこの如しという。因て鎮火の祭をなしまた幽魂を慰んため、今に毎歳7月15日16日の夜戸毎に高6間計の燈籠を供ふ。

古蹟

館跡2

一は横町の北米倉の地なり。
東西50間・南北1町計。
東北に大槻川回り西南に堀形存し土居も残れり。
正安の頃(1299年~1302年)荒井信濃守頼任という者築きその子孫新兵衛某、萬五郎某という者住すといえども詳ならず。元亀の頃(1570年~1573年)大庭太郎左衛門住せしという(野沢本町の条下を併せ見るべし)。
一は町より午未(南~南南西の間)の方12町山上にあり。
高30間計・周15町計。何人の住せしこと知らず。
また町の南4町に泥深(とろふか)新田という字あり。往古小島村の住中地景虎(小島村にてはこの事を伝えず)という者この館に住せし者と戦し時、館主謀てこの所に藁を置いて景虎を陥し所という。寛文の頃(1661年~1673年)まで景虎が墓なりとて町より午未(南~南南西の間)の方4町に桜の古木1株ありしが、今はなし。

町より午未(南~南南西の間)の方4町菜圃(さいほ)の中にあり。
何の頃にか1石1字の経文を埋めし所という。
また町中に3つ、町の西6町に1つあり。共に経塚の類なりという。
また町より申(西南西)の方6町に観音腰掛壇という塚あり。来由詳ならず。

旧家

与兵衛

この町の農民なり。家計を詳にせず。
天正中(1573年~1593年)伊達政宗より先祖伊勢といういう者に与えし文書ありしが今はなし。その写しあれば左に出す。
  借帳
俵物百五十六俵其身預置候也仍如件
 天正十七巳丑六月廿八日  政宗 印
          野澤政所伊勢
舊事雑考に当時荘屋卿頭をさして政所と称せしよりを載す。



余談
「野沢」の由来である野沢川(裏川)とはどこにあるのでしょう?


古地図

※地理院地図(大正2年測図/昭和6年修正)

諏訪峠について

※地理院地図(大正2年測図/昭和6年修正)

現在の地図にはこの峠の名前は残っていないようです。
場所としては四岐温泉の山路をそのまま登り赤羽根山(旧赤羽根金山)の方に抜ける峠道だったようです。赤羽根山を越え道なりに進むと金山地区に到着し、そこから西に向かうと大滝地区に、東に向かうと落合地区に到着します。結構な距離がありますね。
古い地図では全体を載せるのが難しかったので、現在の地図も合せて載せておきます。
最終更新:2025年07月03日 15:36

*1 雄山閣版(富田川)と国立公文書館版で名称が異なる