土津神社

陸奥国 耶麻郡 猪苗代 城下 土津神社(はにつ-)
大日本地誌大系第31巻 154コマ目

※国立公文書館『新編会津風土記49』より

祭神 肥後守正之 保科正之
相殿 徳翁霊神 松平正容
   土常霊神 松平容貞
鎮座 延寶元年(1673年)

この社は肥後守正之を祭れり。
正之が子で神道を吉川惟足に学び卜部家の蘊奧を窮む。因て致仕の後土津の霊号を惟足に受け、没後神道の祭儀に従わんことを欲す。
寛文12年(1672年)壬子5月休暇を賜わりて会津に下り、8月22日壽蔵を定んとてこの地に来り見祢山に登り湖山の勝景を眺望し、没後この山中に葬りこの山また磐椅明神の社地なるにより神祠を営てその末社たらんことを命じ群臣と宴飲晷を移す。家老友松勘十郎氏興従てここに至りしが、湖水の鯽魚を献じ酒やや闌にして正之詠歌あり
萬代と いはひ来にけり 会津山 高天の原に すみかもとめて
この時吉川惟足も従来り同く宴に連りければ、
君爰に ちとせの後の 住所 ふた葉の松や 雲を凌ん
(また二葉の小松雲や凌んともいう)
と詠し歓を尽せしとぞ。このあたり今に松樹多く凌霄の勢あれば詠すると所能恊えりというべし。
その冬10月正之江戸に上り12月18日に江戸箕田の邸に終れり。
その年尸柩を会津に移し、翌年延寶改元(1673年)3月27日この山に葬り麓を闢て社を営めり。神官数員祭を奉じ如在の敬懈らず。その儀今に厳重なり。皆下に舉く封内の諸村において新墾田1600石余の地を付し永く祭祀の料に充つ。

腰掛

社人町の北端西頬にあり。
南北6丈3尺余・東西1丈2尺余、東向きなり。

番所

腰掛の北にあり。
1間半に1間。
祭の時足軽を置て往来を察す。

神橋2

共に土田堰に架す。
長2丈5尺2寸・広1丈2尺6寸。左右に勾欄あり。これを男橋という。
一は女橋とてこの橋より4間ばかり東に架す。長2丈5尺余・広6尺余。
この堰の源は本郡檜原川より渠を鑿ち磐椅神社の前を過ぎこの社の御手洗川となり、西流して土田新田の養水となる。

鳥居

神橋を渡て本社に詣る石階の下にあり。
高1丈6尺8寸、両柱の間1丈3尺。

石燈籠1基

鳥居の東にあり。
『延享二年乙丑建願主土町者共』と彫付けあり(延享2年:1745年)。

的場

鳥居より西にあり。
広8間、東西21間。
西矢先にて東に6間に2間の射小屋あり。

制札

鳥居の東にあり。
見祢山の内にて殺生及び竹木を伐り枝を打下草を刈ることを府より禁ずる榜示なり。

神厩

制札の南にあり。
祭の時神馬を繋ぐ厩なり。
高1丈余、5間に2間あり。
神馬は常に土町の農家にて養い、祭の時ここに供ふ。

奔雷瀑

感時門の南、石階の西にあり。
社内より伏槽を以て水を通し石垣の間より注下る。
高1丈2尺・広1丈9尺。
その聲雷の如し。
滝坪は東西竪1丈・南北1丈2尺5寸。
池深2尺余。

石階

感時門の外にあり。
神橋を渡てこの石階に升り感時門に入る。
高2丈4尺・広1丈3尺、32級なり。
またこの階の左右に石溝あり。
また石階の6間計に女橋より往来の坂あり。木を伏て階とし40級あり。

感時門

この社正南の門なり。
高2丈3尺2寸、東西2丈3寸・南北1丈7尺6寸。
厚茅葺にて南面には左右に白幣各1本を置き、北面には左右に彫刻彩色の狛犬あり。
中央に額ありて『土津大明神』と題す。従二位神祇大副卜部良延筆なり。
西は廻廊にて東に透屏あり(間数下に見ゆ)。
門の名は『感時念親(時に感め親を念ふ)』の語に取れり。
この所に至れば遠山空に聳え湖水西南を浸し小平潟の白沙煙波の裏に浮動し、四時の景勝変態一ならず怵惕悽愴の念起り追慕の感やむことなし。

番所

感時門の東に設く。
2間に1間半。
昼夜番人をおく。

鳥居

感時門の内にあり。
高1丈5尺8寸、両柱の間1丈2尺。
ここを入れば石階あり。

唐銅燈籠2基

鳥居の東西にあり。
東は『享保十四年己酉八月建願主江戸住海保半兵衛』、西は『享和元年辛酉八月建願主京都住矢倉安盈大阪住稲川経敬同山中彰信同矢倉安住會津住林光治同塚原孝徳』という銘あり。
※享保14年:1729年・享和元年:1801年

石階

広2丈・高1丈5寸、15級あり。
もと山麓を崩して社地をせるゆえ、社人町より漸々に高く石階に層を登りここに至る。

観盥池

2ヶ所にあり。上下をもて称す。
下は内の鳥居の西にあり。石槽高2尺8寸8分、方4尺8寸8分。四方に注ぐ。
上は幣殿の西にあり。石槽高3尺1寸、竪5尺6寸余・横4尺6寸余。
毫釐の違なし。
この池に1間半四方の井小屋あり。柿葺なり。
人々ここに詣り盥漱して神を敬うの義に本き易の『盥而不薦有孚顒若(盥して而薦不孚顒す)』と云に取れり。

拝殿

高3丈4尺2寸、南北4間・東西7間半、四方に庇檐あり。
欄干を設け前に3丈4尺余に1丈1尺余の向拝あり。桶に鈴を5ヶ所に懸く。
厚茅葺、南向きなり。
拝殿に升る処階5級、正北に降る処に2級の階あり。
これより幣殿まで南北4間余・東西1間半の廊下あり。上はトチ葺、下は石畳なり。これを外廊下といい、また石之間ともいう。

幣殿

東西1間半・南北8尺。
南に8級の石階あり。
唐破風造り柿葺にて左右の袖垣に種々の彫物あり。
また幣殿を瑞門ともいう。
ここより本殿の間にまた南北4間余・東西1間半の廊下あり。トチ葺にて下は石の数瓦なり。これを内廊下という。

本殿

高6間余、トチ葺にて3間四面の宮造りに四方の縁幅5尺3寸余、欄干あり。正面に7級の階あり。この前に南北1間4尺、東西2間1尺余の向拝あり。四面に彫物多く枚舉するに遑あらず。
東西と北に玉垣繚れり。東西12間・南北20間あり。内陣に土津大明神の神霊を案じ徳翁霊神(肥後守正容霊号)、土常霊神(肥後守容貞霊号)の神霊を配して相殿とす。
祭禮は毎年8月27日、28日なり。26日を前齋とし、27日より祭ありて28日の暁に神輿を渡す。神楽は大沼郡高田村伊佐須美神社の歌曲を用う。その歌は錦綺帳・白銅鏡・大手伸の3曲なり。
年始・歳暮・五節句・冬至・祥忌の神事誠を尽し(冬夏に神衣を献す)、国の大事吉凶必告て水旱疾病必ここに祷る。報応またいちじるしければ四民の崇信他に殊にて、他邦よりも報賽するもの多し。

石燈籠2基

本殿の左右にあり。
高1丈8寸、『奉獻石燈籠 土津神社廣前延寶三年乙卯八月二十三日』という彫付けあり(延寶3年:1675年)。

胙之間

拝殿の西にあり。
茅葺にて東西6間・南北2間。南北と西の縁に欄干あり。
またこの縁より拝殿の間に幅1間・長2間の橋を架す。左右に欄干を設け西に撞鐘を懸く。祭の後(ひろもぎ)を受る所なり。

神供所

胙之間の北に継で茅葺にて南北3間半・東西2間。
坐2つあり。一は調進所とし、一は休憩所とす。

神厨

茅葺にて東西3間半・南北6間半。
本殿の西にあり。
神厨の北に径4尺程の井あり。1間半四面の井小屋を構え神供の用とす。

廻廊

厚茅葺にて神厨の南より幅3間・長21間半にて西南の隅に至り、これより東に繚り5間半にて感時門に接す。
この廻廊の内西南の隅にかけ造の楼あり。東西3間半・南北2間。
この楼より西南を望めば湖山風景鮮明にして雅致乏からず。遊客ここに登りて詠賞多し。

(すかし)

感時門の東につづく。
長27間。
中に1間の透戸(すかしと)あり。

神楽堂

茅葺にて東西3間・南北2間。
拝殿の東南にあり。
幅1間・長3間半の橋を拝殿より架す。橋の左右に欄干あり。

宝蔵

本殿の西北にあり。
東西3間・南北5間2尺7寸。

新宝蔵2

一は幣殿の東にあり。東西4軒・南北2間半。
一はその南にあり。東西2間・南北6間。

雑蔵2

一は新宝蔵の北にあり。東西2間・南北7間。
一は本殿の東北にあり。東西2間・南北3間。

碑石

感時門の内鳥居の東にあり。
高1丈8尺・広6尺・厚5尺。
亀跗高3尺・長1丈6尺・広1丈1尺3寸。
北を首とす。
篆額に天禄辟邪を彫付け『土津靈神碑』の5字あり。四面ともに楷書にて碑文を刻めり。彫付精巧今に新なるが如し。その文如左(※略)。

磐彦霊社

祭神 長門守正頼
創設 延寶3年(1675年)
本殿の東にて南の端にあり。西向き。
東西5尺余・南北7尺余。前に6級の階あり。
また東西3尺余・南北4尺余の向拝あり。柿葺なり。
長門守正頼を祭れり。正頼は肥後守正之世子にて先て逝せり。
延寶3年(1675年)にここに祭て別社と称す(行状は院内山正頼墳墓の条下に詳なり)。

石彦霊社

祭神 東市正正純
創設 延寶3年(1675年)
本殿の西にて南の端にあり。東向き。
神殿向拝の間数凡て上に同じ。
東市正正純を祭れり。正純は正之第7男にて先て逝せり。
延寶3年(1675年)にここに神祠し別社と唱ふ(行状は院内山正純墳墓の条下に詳なり)。

信彦霊社

祭神 田中三郎兵衛正玄
創設 延寶3年(1675年)
磐彦霊社の北に並べり。西向き。
東西5尺・南北7尺。前に6級の階ありて東西2尺余・南北4尺の向拝あり。柿葺なり。
大老田中三郎兵衛正玄を祭れり。正玄は正之に先て没せり。
正之が子で壽蔵をこの山に営むの志ありしにより、正玄が忠貞勤労を愛し命じてこの社地に葬らしめ、友松勘十郎氏興をしてその葬事を治めしむ。因て延寶3年(1675年)ここに神祠して末社とす(正玄の行状は正玄墓の条下に詳なり)。

久彦霊社

祭神 深茂右衛門重光
創設 元禄2年(1689年)
本殿の東、信彦霊社の北に並べり。西向き。
東西4尺7寸・南北6尺4寸余。前に6級の階ありて東西2尺余・南北3尺7寸の向拝あり。柿葺なり。
家老井深茂右衛門重光を祭れり。
重光は高祖彌右衛門重信より保科家に仕え世々功勲あり。元禄2年(1689年)に正之に後れて没せり。その年ここに神祠す。

幸彦霊社

祭神 梁瀬三左衛門正真
創設 寶永8年(1711年)
本殿の東、久彦霊社の北に並べり。西向き。
この社の間数凡て前に同じ。
家老梁瀬三左衛門正真を祭れり。
正真は出羽国最上郡人佐佐喜兵衛俊信という者の子にて、幼名を三彌という。17歳より正之に仕え後家老となり、寶永7年(1710年)正之に後れて没せり。その翌年ここに神祠す。

忠彦霊社

祭神 友松勘十郎氏興
創設 寛永7年(1630年)
本殿の西、石彦霊社の北に並べり。東向き。
東西4尺3寸・南北5尺7寸余。前に6級の階ありて東西1尺8寸・南北5尺7寸余の向拝あり。柿葺なり。
家老友松勘十郎氏興を祭れり。
氏興は尾張国愛知郡日比津村の産、友松蔵人某が後にて祖父治右衛門盛保(は)大閣秀吉に仕え父新右衛門氏盛(は)秀頼に仕ふ。氏興土佐国土佐郡高智村に生まれ、幼名を内蔵という。13歳にて正之に仕え後家老となり、遺命を奉じでこの山を闢き墳墓を営み神社を建て神官を設け墓田を寄せ祭儀を制す。みな氏興が司る所なり。貞享4年(1687年)に没す。寛永7年(1630年)ここに神祠せり。

進功霊社

祭神 服部安休尚由
創設 寶永4年(1707年)
本殿の西、石彦霊社の後にあり。南向き。板葺。
東西4尺3寸・南北5尺7寸余。向拝東西3尺4寸余・南北2尺4寸余。
社司服部安休尚由が社なり。安休初春庵とて林道春が弟子にて文才あり。後正之に仕え侍臣となる。正之命じて吉川惟足に神道を学わしむ。因て正之在世に約する所ありてこの社の社司となる。天和元年(1681年)に没す。寶永4年(1707年)にここに神祠せり。

寶物

肥後守正之事実  5冊。
肥後守正容事実  5冊。
見祢山廟記    1軸。その文如左(※略)
見祢山賦     1軸。その文如左(※略)
見祢山六景六境詩 1軸。左に載す

六景
 見祢風松
百尺参天清節貞満山枝動勢崢嶸風濤影亂五湖殷澗壑雲傳十里聲

 赤埴霜葉
曝錦千枝萬朶間紅粧映日照天關染霜葉葉添秋色纐纈林深赤埴山

 磐梯白雪
雪埋絶頂漲深渓天險由来難得躋滕六花寒高萬仭回磐凝結鎖雲梯

 大澤碧流
逝者如斯晝夜移一條碧玉水東迆認名欲説祥雲気劉季曽生大澤陂

 亀城古堞
風雲依舊護儲胥百雉飛過堵堞餘形勢若論前代法環亀可舎馬穰苴

 猪苗睹湖
萬頃溶溶一面風猪苗湖濶浸蒼穹晴波遠入洞庭去千里流通日本東

延寶三年乙卯中旬弘文院林学士題

六境
 観盥池
晴池浄如拭観盥賽靈神知有精誠在一心日日新

 圓清水
乳泉通一脉活水出源頭若使子荊漱長尋山上流

 感時門
傷心分草色濺涙對花英風付本無頼唯空管送迎

 複道廊
複道廊腰縵高吟楼上風舉頭雲影近歩歩似行空

 奔雷瀑
風急千車輾雲揺萬鼓鳴軽飜銀漢水満壑滴餘清

 睡猫石
午寂線眼纎依石得群集莫使雲根移恐驚苗介立

       林整宇

会津風土記    1冊。
会津神社志    1冊。
会津神社総録   5冊。
伊洛三子伝心録  1冊。
二程治教録    2冊。
玉山講義付録   3冊。
楽書       8冊。尋問抄・三五要録・仁智要録・神楽譜・蘆聲抄・笙譜笛・續教訓抄あり。

倭姫世記     2軸。
御鎮座本記    2軸。
御鎮座伝記    2軸。
宝基本記     1軸。
三元加持経    1軸。
五行祝詞     1軸。
御鎮座次第記   1軸。

右7部箱入

徳川記      19冊。
碁磐并碁石    1具。奕師安井算知寄付。正之碁を好み算知に饒先の手合なりしという。箱に書付あり。如左(※略)

改暦表并食考   2通。
本朝古今交食考  1冊。
貞享改暦考    1冊。

右3部天文方安井算哲寄付。
相伝。1日算知来りて云やう。臣が子算哲碁を喜すれども專ならず、よしなき暦算に心を尽くして家業の精ならざるを憂うと。正之聞てこれを悦び「碁を喜する者世に多ければ妙手に至らずとも事足りなん。本朝久く宣明暦を用いられるとも推歩の術甚だ踈なり。これを善する者出は世の益鮮からず。汝その志を挫かず業を遂げしむべし」という。これより算哲ますますその術を研窮し元郭守敬が授時暦に拠り暦書を造て官に献ず。すなわち號を貞享暦と賜い旧暦を改めらる。後に算哲天文方となる。渋川主水その後なり。因てこの寄付ありしという。

三十六歌仙    1軸。土佐光起画、大炊御門左大臣経考公筆、筑前守正経母聖光院寄付。
金銅燈籠     2基。加賀中将綱紀寄付。その銘左のごとし(※略)。
神輿       3基。
鑓杖       1本。
鳥甲       4箇。
笛        4管。
鑓        6本。
馬具       3通。
弓        12張。
矢        12本。
空穂       6通。
太刀       6口。
短刀       3口。
刀        同上。
脇差       同上。
真太刀      1口。加賀中将綱紀寄付なり。
甲冑       3領。
采配       1柄。
軍配圑      同上。
旗        1流。
螺        1口。
鉦        1口。
鞭        1本。
陣扇       1柄。
指物       1流。
箙        1負。
纒        1流。
鞢        1具。
陣羽織      2領。
陣太鼓      1面。
馬具       3通。
馬具       同上。
大矛       3本。
手鉾       6本。
幡        2流。吉川惟足寄付。
幡        6流。
小幡       6流。
小幡       2流。吉川惟足寄付。
猿田彦仮面    4枚。
猿女仮面     3枚。
翁仮面      1枚。
三番仮面     1枚。
猿仮面      1枚。
喚鐘       1口。
撞鐘       1口。

土津墳墓


本殿の北東西5丈7尺の間に柵木を設け社地の界とす。中に木戸あり。これより内を墳墓の境内とし、常に木戸を閉め入ることを禁ず。
中に1条の道あり。北の方8町計に土津の墳墓あり。左右松林にて松風断ず幽寂別境に至るが如し。

中将正之墓
高2丈1尺・上径3丈・下径15丈・周8角にて51丈。上に鎮石あり。竿石高4尺7寸余・8角にて径7尺。竿石も8角にて高4尺7寸・径9尺2寸。坐石高3尺・径8尺3寸。総高1丈2尺4寸余。
前面に篆書にて『土津神墳鎮石』と題す。
墳墓の回りに柵木あり。東西29間・南北31間半。これも8角にて周100間余あり。
墳墓の正南に表石を建。竿石1丈3尺・径3尺。坐石高3尺・径6尺。表に『會津中将源君墓』と題す。これは楷書なり。

石燈籠2基
表石の左右にあり。
高1丈8寸。坐石高1尺8寸・径4尺5寸。表に『奉獻石燈籠両基土津靈神墓前延寶二年甲寅四月吉辰』と彫付けあり(延寶2年:1674年)。

拝殿
表石の正南3間余にあり。
柿葺。
北の端東西3間・南北2間の間を内拝殿という。
その次の間を松之間といい東西1間半・南北2間。砌りに老松樹ありて檐を穿ち重陰坐土に掩映するによりこの名あり。
その南を外拝殿とす。2間四方。
この東を神供所とす。東西3間・南北2間。
また外拝殿の西を茶部屋とす。東西4軒・南北2間。
南に総縁あり。この所深山にて文榱華梁の飾なく陰霧四壁に生じ寂寞として物さびたり。心なき者もここに至ればその音容に接するが如く神徳仰ざることなし。
毎年3月花祭また祥忌等の祭あり。

士番所
茶部屋の南7間余にあり。
東西2間・南北5間。茅葺にて東に3尺の庇あり。
北2間を手水所とし次3間を士番所とす。

圓清水
墳墓の南1町58間、墓道の西頬にあり。
水面径6尺・深7尺3寸。
水底に青岩ありて水その際より湧出し桶輪の四方に灌ぐ。転清冽なり。
この清水墓地を定し時始て得るという。この水旱魃にも涸ることなし。適涸ることあれば凶事ありとてこれを畏る。
また新産の婦乳に乏しき者この水にて粥を炊き用て験あり。眼を患る者目を洗うに癒ざることなしとぞ。
舒葺にて1丈四面の井小屋あり。


この墳墓の地は見祢山といい、また赤埴山と称す。
この山を開き墳墓を営、神社を建立せし時この碑を山の半腹に建、境界を定む。
高7尺3寸・広2尺8寸余・厚2尺。
その文如左。
見祢山南北五百三十間南至坂下北至水滴澤東西三百八十六間東至麓西至大澤自巽乾七百九十五間巽隣磐椅大明神社地乾至中丸山自坤至艮三百四間坤至大澤艮至湯澤延寶元年癸丑三月朔日定之
※延寶元年:1673年

鏡宮
一名を五社という。
東西1間2尺・南北5尺、南向き。
祭神5座ありて神名詳ならず。府城の稲荷社及び蚕養国神社にもこの末社あり。肥後守正之時代よりこれを祭れり。
延寶7年(1679年)8月27日より宝蔵の内にこの神を勧請せしが、後社司の宅地に遷せり。

田中正玄墓
神橋の東170間余、林の内にあり。
三郎兵衛と称す。
大老職に升り社稷に勤労すること数年、寛文12年(1672年)5月28日に終れり。正之その死を悼み、友松勘十郎氏興に命じてこの地に葬らしむ。
毎年の花祭は府よりこれを行う。
この墓の回りに南北2丈4尺余・東西1丈8尺余の柵木を繞らし中央に墓あり。南向きなり。竿石高5尺7寸余・広2尺5寸余・厚2尺1寸、坐石高2尺・南北方面6尺6寸余東西方面6尺2寸余。表に『田中正玄墓』と題す。楷書なり。碑陰文如左(※略)。

手掛松
田中正玄墓の北にあり。
正玄終れる年の8月22日正之壽蔵を定むるためにこの山に登り遷に正玄が墓に過ぎこの松に杖を寄せ、三郎兵衛ここにあるが自もほどなくここに来り汝とともに松風の淅瀝たるを聴んとてこの松を攀悲みしがその冬正之も逝せり。因て国中その遺愛を恋い、柵木を繞らし手掛松と称し今に至てその事を哀めり。この松今は数圍の古木なり。

墓山
神橋の東26間にあり。
東西25間・南北110間。
西は社人町の後を界をし、東南は見祢村の地に隣り、北は土田堰を限りとす。
神官等の墓地なり。神官にあらざれども神道を奉する者はこの地に葬れり。因て神道山ともいう。

十間蔵
墓山の西にあり。
10間に3間。

神職員数

社司   1人。
昇殿役  3人。
配膳役  1人。
神供役  1人。
物書   1人。
宮奴   6人。
小間仕  1人。
神楽長  1人。
神巫   3人。
楽工   11人。















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