この村は大堀石見長重が子善右衛門宗道という者寛永12年(1635年)に開ける新田なり。始は大原新田といい、後今の名に改しとぞ。
府城の北に当り行程3里19町余。
家数6軒、東西2町1間・南北46間。
山麓に住す。東は山に倚り西南北は田畠なり。
東5町・西1町30間・北1町5間、共に
小沼組常世村の界に至る。その村は西に当り8町余。
南2町9間
松崎新田村の界至る。その村まで3町40間余。
また申(西南西)の方2町9間
中屋敷村の界に至る。その村まで10町30間余。
旧家
善右衛門
この村の肝煎にて大堀土佐景長が後なり。その家の系図によるに、土佐は猪苗代三浦の支族盛國が長臣なり。秋屋某等と共に金曲城を守る。然るに天正17年(1589年)盛國・盛胤父子の軍起りて(盛國父子の軍起りしことは
川東組金曲村の条下に詳なり)猪苗代の騒乱大かたならず。土佐その間に在てとりあつかいけれどその事ならず。盛國に従うときは不忠に党し、盛胤に従えば不孝の人に従うに似て進退にきわまりしかば、所詮その身をのがれんにしかずと覚悟し、遂に盛胤と戦いいたづらに敗北して金曲城を落ち、ゆかりについて葦名家の宿老富田将監が
許に来り名を休夢と改め、後大沼郡田沢村に移りまた河沼郡坂下村に住せり。その子石見長重、父と共に金曲城を去て本郡上利根川村に住居すという。その子善右衛門宗道という者寛永12年(1635年)始てこの村を開いて住居せしより、今の善右衛門正武まで8代なり。
最終更新:2020年07月04日 13:00