耶麻郡小田付組関柴村

陸奥国 耶麻郡 小田付組 関柴(せきしは)
大日本地誌大系第32巻 89コマ目

府城の北に当り行程5里。
家数16軒、東西1町55間・南北51間。
四方田圃(たんぼ)にて、東は川に傍ひ北は山に近し。

東1町3間下柴村に界ひ姥堂川を限りとす。その村は辰(東南東)に当り7町50間余。
西6町54間稲田村の界に至る。その村は申(西南西)に当り8町40間余。
南3町36間熊倉組平林村の界に至る。その村まで6町40間余。
北15町計中田付村の山界に至る。その村は亥(北北西)に当り8町50間余。

小名

打入(うちいり)

本村より亥(北北西)の方17町にあり。
南北2区に住し、その間3町を隔つ。
北を上打入という。家数5軒、東西22間・南北57間。
南を下打入という。家数3軒、東西51間・南北33間。
共に山間に住す。

菅沼(すかぬま)

本村の北1里50間余にあり。
家数4軒、東西50間・南北20間。
重山の間に住す。
寛文7年(1667年)中田付村より分れこの地をひらく。天正13年(1585年)伊達勢、葦名勢に攻立られ馬具を捨て辛き命を続き菅沼まで逃るというはこの地なり(中田付村龍泉寺の条下と併せ見るべし)。

端村

河岐(かはまた)

本村の西にあり。
家数8軒、東西2町・南北29間。
散居す。
四方田圃なり。

大田(おほた)

本村の戌(西北西)の方4町余にあり。
家数3軒、東西1町20間・南北22間。
四方田圃なり。

西條(にしてう)

大田より北40間にあり。
家数4軒、東西2町23間・南北44間。
四方田圃なり。

赤坂(あかさか)

西條の寅(東北東)の方1町にあり。
家数4軒、東西33間・南北25間。
南に田地あり三方は山に傍ふ。

高橋(たかはし)

本村より寅(東北東)の方5町50間余にあり。
家数6軒、東西50間・南北37間。
東は姥堂川に臨み三方に田圃あり。北は山に近し。

入柴(いりしは)

高橋より6町10間北にあり。
家数7軒、東西37間・南北1町32間。
南に田圃あり。東は姥堂川に傍ひ西北は山に迫る。

茅場(かやは)

本村の北に当り1里27町10間余にあり。
家数6軒、東西22間・南北1町40間。
四方重山なり。

婆柳(うはやなき)

本村より未(南南西)の方5町50間余にあり。
家数2軒、東西48間・南北27間。
四方田畠なり。

山川

滝沢山

村北15町計にあり。
頂まで3町。前に黒岩門小路の諸峯つづき、北にヤヒツ・菅沼の2山連なり入田付村に界ふ。
松樹雑木多く松蕈・鹿タケを産す。

姥堂川

下柴村の山奥より出、端村入柴・高橋の東を過ぎ南に流るること3里平林村の界に入る。
怪石(そばだ)ち水勢湍急なり。

原野

秣場

端村茅場の山奥にあり。
東西15町・南北25町計。
稲村・上田村・上岩崎村・入田付村・中田付村・大沢入村入逢の地なり。

水利

村北8町50間にあり。
東西38間・南北40間。
延寶4年(1676年)に築く。打越堤という。

神社

諏訪神社

祭神 諏訪神?
相殿 稲荷神 2座
諏訪神 2座
熊野宮
十二神
権現
白山神
山神
鎮座 不明
村の丑(北北東)の方7町余にあり。
鳥居あり。熊倉村山口美濃これを司る。

寺院

中善寺

端村赤坂の東、山足にあり。
真言宗關堂山と號す。開基の年月詳ならず。
薬師堂中本尊の背に『延慶三庚戌年卯月二十五日忍何上上人創業也』と彫付けあり(延慶3年:1310年)。その頃の草造にや。旧は洞家の僧侶住せしが、中頃衰えて殿堂破壊す。慶長中(1596年~1615年)大町弥勒寺より祐誉という僧来て中興し弥勒寺の末山となる。
相伝て、昔巨宏の霊場なりとて権現山・曼荼羅沢などいえる遺名あり。また桜杉の古たる今に存す。

制札

境内入口にあり。

客殿

8間に7間、南向き。
本尊地蔵。

庫裏

7間に2間。

薬師堂

中善寺の北、山の中腹にあり。
薬師十二神将の古像を安ず。
中善寺司なり。

古蹟

館跡

端村入柴の西、山際にあり。
大永2年(1522年)葦名氏の臣松本長門(後入道して幽閑という)築く。
天正13年(1585年)長門が子備中というもの伊達政宗に内応し伊達勢を引入れ黒川勢と合戦ありしとき、備中は葦名の臣沼沢出雲に討たれ父長門は生捕られて厳刑に行わる(中田付村龍泉寺林の条下と照らし見るべし)。
土居隍の跡今畠を闢けり。
西の山手に長3尺余に幅1尺計の岩を穿たる所あり清水その中に滴る。土人台所清水と称す。清冽にして旱魃にも涸れず。




追記。
コメント欄にてとんりすんがりさんより情報頂きました。
菅沼集落は現在廃村となっているとのこと。
居住していた方々は関柴合戦で葦名勢に撃退された伊達勢の敗残兵の子孫で、全戸が同じ姓の一族だったようです(集落の東の墓地にはその先祖が植えた桜の大木が昭和の頃まであったそうですが、現在は枯れてしまったそうです)。最盛期は9世帯が暮らしていたそうですが、やはり立地の不便さ故か高度経済成長以後は若い人から喜多方市街や他所に移りはじめ、平成10年代前半に最後まで暮らしていた3軒が平野部に移ってついに無住の地となったようです。現在も二軒在家集落から大仏山を横切る車道が通っており、旧家墓地の管理や畑仕事のために旧住人の方が定期的に出入りしている他、集落の電柱はまだ生きており姥堂川を挟んだ大楚々木集落に電気を通しているので電力会社の方も整備に訪れるようです。斜面の少ない平地を利用して家屋が建てられており、その目の前はすぐ崖という立地で往時の苦労が忍ばれます。子供たちは大楚々木の分校に通っていたそうですが、関柴町に属しながら、ついに大楚々木とを結ぶ車道が敷かれる事はなかったようです。
村の鎮守の山神社もあったそうですが、現在も手入れされているかどうかは不明だそうです。

また同じく萱場(茅場)集落も廃村になているようです。
こちらの集落も関柴合戦の敗残兵が開いたという言い伝えがあり、やはり集落の殆どが同じ姓を名乗っていたそうです(菅沼集落とはまた別の姓です)。こちらは「会津風土記」の方にもすでに記述があります。菅沼集落以上の奥地で、菅沼、両楚々木集落が昭和22年に通電が開始されたのに対し、萱場集落に電灯がともるのは昭和37年を待たなければならなかったようです。そのためか衰退は菅沼集落より早く、平成の初め頃には既に無住集落となっていたようです。この集落も大楚々木集落の旧分校(萱場の子供たちもここに通っていたようです)の脇から狭く険しいながらも車道が通っており、元住民の方が管理を続けているようです。姥堂川にかかった橋を渡るとまっすぐな坂道があり、その上に築かれた集落です。
萱場の北東には風土記に記述がある秣場があったそうで、かつて寺院があったという言い伝えから和尚壇と呼ばれていたそうです。他に死人沢という恐ろし気な字名が残っており、姥捨山だったという言い伝えがあるそうです。
この地区にもかつて山神社があったそうですが、廃村のタイミングで関柴村へと遷座したとのことです。
最終更新:2024年03月28日 17:14