耶麻郡小田付組中田付村

陸奥国 耶麻郡 小田付組 中田付(なかたつき)
大日本地誌大系第32巻 87コマ目

昔は大沢村と1村なり。正保2年(1646年)にこれを分つ。北に入田付村南に小田付村ありてその中に居ゆえ中田付と称す。
昔は内町・外町とて両所に月12度の市をなし民戸多く繁栄せし地なり。天正10年(1582年)外町の市6度を小田付村と小荒井村に分ち(小荒井村の伝うる所と異なり)、当村にては内町の市計を立しに漸々に衰微(すいび)し、1年に両日のみにて近頃まで7月14日・12月29日の市日あり。今は廃す(小田付村の条下と併せ見るべし)。
当時の市神今に村民の家にあり。長7寸衣冠(いかん)の神像なり。

府城の北に当り行程5里15町余。
家数27軒、東西2町50間・南北2町。
四方田畠にて北は山に近し。

東14間関柴村の界に至る。その村は巳(南南東)に当り8町50間余。
西1町4間大沢村の界に至る。その村は戌(西北西)に当り5町20間余。
南3町30間稲田村の界に至る。その村まで5町30間余。
北14町6間入田付村の界に至る。その村は亥(北北西)に当り32町余。
また
未(南南西)の方1町36間上田村の界に至る。その村まで4町40間余。

端村

三屋(みつや)

本村の北9町30間余にあり。
家数4軒、東西1町15間・南北1町3間。
散居す。
西南に田圃あり東北は山に近し。

山川

大佛山

村より寅(東北東)の方15町にあり(大沢村の条下に詳なり)。

水利

滝川堰

入田付村の方より来り田地の養水となり、小川に入て須蟹沢川となり上田村の方に注ぐ。入田付村にては南原堰という。

村より丑寅(北東)の方12町、山間にあり。
周82間。
本村及び関柴村の養水とす。文治沢堤という。

神社

熊野宮

祭神 熊野宮?
相殿 稲荷神
   山神
   天王神
   幸神
鎮座 不明
村南にあり。
鳥居拝殿あり。熊倉村山口美濃これを司る。

山神社

祭神 山神?
鎮座 不明
端村三屋の北1町余、山麓にあり。
鳥居あり。村民の持なり。

麓山神社

祭神 麓山神?
鎮座 不明
村の寅(東北東)の方25町、山上にあり。
村民の持なり。

寺院

龍泉寺

村の亥(北北西)の方30間余にあり。
大澤山と號す。下野国大沢圓通寺の末山浄土宗なり。
開基詳ならず。
大永の頃(1521年~1528年)鎌倉光明寺より隆實という僧来て廃宇を再興せり。
天正中(1573年~1593年)この村の領主佐瀬大和が寄付の田地ありて堂舎の修造怠らず。
天正13年(1585年)伊達政宗襲来りし時この寺に火を放ちけるが、村民集てこれを防ぎ僅かに災いを免るという。今存する所近世の造営なり。
本尊弥陀客殿に安ず。

観音堂

境内にあり。
十一面観音を安ず。

古蹟

龍泉寺林

龍泉寺の北にあり。
天正13年(1585年)葦名家の臣松本備中某というもの伊達政宗の臣平田太郎左衛門に語らわれ、政宗に内応して入田付村の山道を開き新田常陸・原田左馬介が軍勢を引入れ黒川を攻んとす。黒川にてもこの由を聞き諸勢浜崎村に出張し防戦の軍議ありしに、中目式部大輔は慶徳村に向て慶徳善五郎に示し合せ700余人朝まだき*1に打立て寺窪(上岩崎村の端村)に至る。中目は稲田村白山社の前に(ひか)えたる新田が勢を渡合い散々に揉立ければ、叶わずしてこの村に引退き後陣の原田が勢と一所になり防戦う。黒川勢も浜崎より追々駈つき勝閧(かちどき)作て攻立しかば、伊達勢利無くして敗走す。
この辺りにて多く討たれし屍を埋めしとて林の中に古塚16あり。土人十六塚という。
また黒川勢の内沼沢出雲というもの備中が不忠なるを深く悪み、抜駆して唯一騎手の者どもを引連れ夜の明けるを待て打向いしに、いまだ軍の始らぬ前なれば備中は舘より出て遠見して居たる所へ不意に馳かけられ、備中馬を返して逃行しが姥堂川のほとりにて遂に出雲に討取られけり。このとき父長門というもの九旬に及ぶ老翁なるが、生捕れ無道人の父なれば懲らしめにとて天寧寺河原に引出し串刺しという刑に行われしとぞ(備中が館跡関柴村にあり。併せ見るべし)。
この外諸村に往々その旧跡多く、枚挙するに暇あらず。

土橋

龍泉寺林の中、大沢村に往く道にあり。
長1間計。
新田が軍勢この所に止り深田を隔て黒川勢を防し処という。
この所堰を通しその水伏流するゆえ土橋と称す。




余談。
村の北東、火付沢の山の中に寺らしきものがあるようですが何でしょう?


最終更新:2020年07月25日 06:55

*1 朝まだき:夜が明けきらない時間。早朝。「まだき」は(その時間には)まだ早いという意味