この村は元和元年(1615年)に開くという。されど檜原村に住せる穴澤加賀、永禄中(1558年~1570年)伊達輝宗の兵を拒みし勲功により盛氏の賞を蒙り大荒井を領すといえば、往古大荒井村と称し後衰廃せしを元和元年に至て廃田を開き民家を取立て新田の字を加えしにや。
府城の北に当り行程5里12町。
家数11軒、東西1町24間・南北1町33間。
四方田圃なり。
東1町26間
村松新田村の界に至る。その村まで4町50間余。
西9間・北2町57間、共に
下三宮村の界に至る。その村は戌(西北西)に当り6町10間余。
南3町28間
小荒井村の界に至る。その村は辰巳(南東)に当り21町30間余。
山川
押切川
村の寅(東北東)の方1町にあり。
村松新田村の境内より来り、南に流るること1町計また村松新田村の界に入る。
古蹟
館跡
村南4町にあり。
東西38間・南北29間。
昔穴澤新助某という者ここに住せしとて今も新助屋敷と称す。
穴澤加賀が領地なりといえば、その時新助を置しも知るべからず。
旧家
太郎左衛門
この村の肝煎にて出羽国秋田郡の住人五十嵐淡路守某が子孫なり。淡路守は源義家朝臣奥州征伐の時従て勲功ありければ、太刀を賜て賞せらる。
12代の孫安房守清常会津に来り河沼郡蜷川荘田沢村にて10貫文の地を領す。
安房守より6代の孫平左衛門が弟市三郎というものこの村の肝煎となり、祖孫相継いで今に至るという。
また義家朝臣の賜いし太刀も今の太郎左衛門より4代前の祖まで持伝いしが、家に祟りありとて小田付村修験延壽院が許に納むといい今はなし。
最終更新:2020年08月02日 08:31