この村
五目組熱塩村に行く道にて昔より市日あり。商買の便よく常に店を出して諸物を商い、そのさま若松の市井に異ならず。
府城の北に当り行程4里28町余。
家数296軒、東西1町50間・南北8町17間余。
東西両頬に連なり北端を上町といい、次を中町といい、次を下町という。また四屋・寺小路町等の裏家あり。
村中に官より令せらるる掟条目の制札を懸く。
四方田圃なり。
東は村際にて
小田付村に界ふ。その村まで2町10間余。
西16町5間
慶徳組見頃村の界に至る。その村まで27町40間余。
南1町42間
清治袋村の界に至る。その村は巳(南南東)に当り3町30間余。
北35間余
村松新田村の界に至る。その村まで10町20間余。
また
亥(北北西)の方18町
大荒井新田村の界に至る。その村まで21町30間余。
未(南南西)の方2町42間
塚原村の界に至る。その村まで5町。
この村市の事により小田付村と争論せしことあり。加藤氏の時毎月2日、12日、27日、7月6日を市日とし相継て今に至るという(
小田付村の伝うる所と異なり)。この日は四方の諸村より群集して交易をなす。中にも正月12日は市神の仮屋をたて、年若き者多く郷頭の家前に集り2組となり屋上より投する米俵を争う。
古文書3通郷頭手代木籐左衛門が家に蔵む。その文如左(※略)。
山郡小荒井村市日
二日 六日 十二日 廿二日 廿六日
右當郷毎月之市日如斯相定候 然而̪̪̪七月八月 両月六日之市日如前〻可立之者也
慶長十二年十月廿五日 町野左近助繁仍 印
岡半兵衛尉重政 印
小荒井村肝煎百姓中
二日上町 十二日八月六日中町 廿二日七月六日下町
右之市日三所に立申上は 面〻の市日所〻見世打可申事 此外内見せ外見世共に一切脇にて打間敷事 此旨相背申者於有之は可爲曲事 仍而̪̪̪如件
慶長十三年七月廿四日 武藤三郎右衛門尉
七里 孫左衛門尉
検断 肝煎 百姓衆
山郡小荒井村市日之覺
二日 十二日 廿七日 六日巳上
右毎月之市日如斯相定候 但六日市は七月一ヶ月可相立者也
寛永六年十月廿五日 志水權右衛門 判
桑原四郎兵衛 判
守岡主馬佐 判
端村
坂井
本村の西6町50間余にあり。
家数22軒、東西2町40間・南北1町2間。
東の方に竹花という字あり。
西は濁川に傍ひ東南北は田圃なり。
山川
田付川
村東にあり。
小田付村の境内より来り、南に流るること9町10間余
清治袋村の界に入る。
広10間。
濁川
端村坂井の西にあり。
慶徳組見頃村の境内より来り、南に流るること17町20間余
太郎丸村の方に注ぐ。
広8間。
応名川
村の丑寅(北東)の方3町20間にあり。
五目組中村と
村松新田村の境内より来り、南に流るること4町30間田付川に入る。
広2間余。
清水
村東50間にあり。
東西5間・南北7間。
側に1株の柳あり。因て柳清水という。
水利
遠田堰
村西にて押切川を引き田地の養水とし
塚原村の方に注ぐ。
寛永中(1624年~1645年)塩川組遠田村の養水に鑿しゆえ名く。
村松堰
西堰
村の戌亥(北西)の方にて押切川を引き田地の養水とし下流遠田堰に入る。
神社
諏訪神社
村中にあり。
永和元年(1375年)信濃国諏訪郡より勸請せり。
天文7年(1538年)年葦名盛氏再興し社領1000苅の田を寄付す。
天正巳丑(1589年)の兵火に炎上し神器・古文書の類焼失す。
慶長3年(1598年)上杉景勝この国を領せる時諸役免除の證文を付せり。今はなし。
この社昔はここより30間計北にあり。寛永18年(1641年)今の地に移すという。
また郭内の
諏訪神社に対して北宮とも唱しという。
祭日6月27日。
また社内に市神の木像2軀あり。
毎年正月12日村中に仮宮を営て祭をなす。
鳥居
両柱の間6尺。
本社
1間四面、南向き。
幣殿
5間に2間。
拝殿
6間に3間半。
神楽殿
2間に1間。
神供所
2間に1間半。
寶物
不動画像 1幅。鳥羽院宸筆。
笈 1荷。別当宗好法印所持の物なりという。中に破れたる頭甲・鏁甲1領あり。
刀 1口。國光作。
別当 小洗寺
本山派の修験なり。開祖を宗好という。大蔵院と称す。
その後萬部院順慶というもの天正10年(1582年)小荒井阿波に与力し、穴澤等と戦い赤城鴨之助というものに討たれその子大善院も討死す。一説に今濁川の辺に萬部壇というは彼順慶が墓なりという。
子孫相続いて現住元龍まで10代なり。
稲荷神社
祭神 |
稲荷神? |
勧請 |
文禄年中(1593年~1596年) |
村中にあり。
鳥居幣殿拝殿あり。五目組上三宮村篁能登これを司る。
愛宕神社
稲荷社の西にあり。
天明中(1781年~1789年)火災に罹り旧記・棟牓焼失し鎮座の始を知らず。
鳥居あり。修験龍蔵院司なり。
寺院
安勝寺
村中にあり。
小荒山と號す。開基の僧を雲光という。雲光は熱塩村示現寺源翁より3世の法孫にて、應永29年(1422年)この寺を開き示現寺の末山曹洞宗となる。
釈迦を本尊と客殿に安ず。
山門に鐘1口あり。径2尺2寸余、『享保八年十一月施主
博労町深田丈右衛門』と彫付けあり(享保8年:1723年)。銘あれども煩わしければ略す。
観音堂
境内にあり。
如意輪観音を安ず。
古蹟
館跡
村中にあり。
地形少し高く、東西34間・南北30間余。土人坂井館という。
築きし年月詳ならず。元亀天正の頃(1570年~1593年)小荒井阿波というもの居住す。阿波は葦名の家臣この村の地頭なり。然るに大荒井村は檜原の穴澤新右衛門が知行所なれど里程隔たり年貢を納るに便ならざれば、阿波が許にてとり収め檜原に送遣けるがその事により出入有て、天正10年(1582年)穴澤と闘争に及び互いに討死する者多し。阿波終に闘負てこの館につぼみしに、穴澤等追来て火を放ちければここにもたまり得ず黒川に奔る。葦名盛隆阿波が不義にして勇なきをいかり所領を没収せり。これよりこの館廃す。
またこの辺放鷹の地に宜しければ、蒲生氏の時よりここに別墅あり。寛文中(1661年~1673年)廃毀す。今菜圃となり御茶屋という字のみ残れり。
経壇
村の戌亥(北西)の方1町50間余にあり。
高1間余・周30間余。
昔押切川洪水し民居の害をなす。故にこの地に経文を置いて患なからんことを祈り、後これを埋めて壇に築くという。
萬部壇
経壇の戌亥(北西)の方18町40間余にあり。
高1間余・周29間。
昔濁川洪水し田圃を損す。故に祈祷して萬部の経を埋めし所なりという。
また修験萬部院というものの墳墓なりともいい伝う。
少将壇
村の亥(北北西)の方1町余にあり。
高1間・周17間計。
何の謂れを伝えず。
旧家
小荒井山三郎
この村の肝煎なり。元祖川内の産にて池田何某とて由ある人の子孫なり。
明徳3年(1392年)南朝亡て後本領を失い、應永2年(1395年)に会津に来り葦名盛政に仕え
大沼郡西麻生村を領し、永禄年中(1558年~1570年)にその子孫30貫文の地を賜りこの村に住す。天正の乱後浪人し、慶長の初(1596年~)七左衛門と称し肝煎役となり子孫今に相続す。
家に古文書を蔵む。その文如左(※略)。
岩田儀兵衛
この村の農民なり。新宮六郎左衛門尉時連(
慶徳組新宮村に住す)の5男五郎左衛門宗連、岩田村(今は長尾村という)に住し氏を岩田と称す。その子備後宗高より13世の孫岩田越中信隆、永禄3年(1560年)幼して会津を去り近江国に住す。同5年(1562年)丹羽長秀に仕ふ。元亀元年(1570年)故ありてその子弥太郎義勝を具してまた会津に来る。義勝後小荒井主水と称し葦名家に仕ふ。その子儀兵衛正勝(後無人齋と號す)慶長10年(1605年)蒲生家に仕え三谷保正い従て柔術を学び、その奥儀を究んことを思い元和元年(1615年)より13ヶ年の間諸州を経歴して能登国宮崎に至り鹿島明神に
祈誓し夢中に剣術の奥秘を受く。後当国に帰り寛永20年(1643年)に世を去りぬ。正勝より9世の孫、今の儀兵衛なり。
家に
萌黄威の鎧1領と鎗3本を持伝う。
最終更新:2020年08月01日 10:48