耶麻郡小荒井組沖村

陸奥国 耶麻郡 小荒井組 (おき)
大日本地誌大系第32巻 103コマ目

府城の西北に当り行程3里30町。
家数17軒、東西1町32間余・南北1町52間。
四方田圃(たんぼ)なり。

東1町32間第六天村の界に至る。その村まで5町余。
西3町58間慶徳組鎧召村の界に至る。その村まで4町20間余。
南1町6間貝沼村の界に至る。その村まで6町40間。
北54間柴城村の界に至る。その村まで8町20間余。
また
未申(南西)の方5町40間慶徳組赤星村の界に至る。その村まで8町余。

神社

稲荷神社

祭神 稲荷神?
鎮座 不明
村東1町20間余にあり。
社前に古碑あり。高3尺・幅1尺8寸。表に『貞和五年己丑七三日(七の下、月の字を脱せしにや)沙彌山口道光』と彫る(貞和5年:1349年)。然れば当社もこの頃よりありしにや。
鳥居あり。上三宮村高村能登が司なり。

寺院

随願寺

村の丑寅(北東)の方にあり。
浄土宗山號を湖東山という。
寛永8年(1631年)塩川組塩川村阿弥陀寺の僧正波開基せしゆえ阿弥陀寺の末山となる。
本尊弥陀客殿に安ず。

古墓

境内にあり。
蓋石の高1尺3寸・横2尺3寸。
竿石の高1尺4寸・横2尺5寸。四方に八曜を彫りその中に各梵字あり。
坐石の高7寸5分・横1尺4寸。東面に『元徳四壬申六月一日開山比丘円乗所清立尼』と刻む(元徳4年:1332年)。その謂を知る者なし。されど元徳3年(1331年)元弘という改元有て、4年は正徳元年にて壬申なり。元徳より正慶の間(正慶元年:1332年)毎年改元あれば、東裔の地その事を知ざりしにや。また(しん)(じん)音近き故誤りしと見ゆ*1
この塚寛文の初(1661年~)までは村より1町余未申(南西)にあり。何の頃にかここにうつす。
住僧は当寺開山の塚といえどもいぶかしき。

古蹟

館跡

村より50間余丑寅(北東)の方にあり。
東西25間・南北22間。
何人の築けること詳ならず。


最終更新:2020年08月05日 15:23

*1 「辛(しん)・壬(じん)音近き故誤りしと見ゆ」:辛申という干支はないんですが…。元徳3年に元弘と改元したのは後醍醐天皇側の北朝で、鎌倉方の南朝は元徳4年まで改元を認めていません。