昔新宮次郎盛俊出陣ごとにこの地に至て鎧を着せし故名けしという。その後転じて鎧目という。寛文中(1661年~1673年)古名に復す。
府城の西北に当り行程3里34町余。
東西2区に住し1町40間余を隔つ。その中にまた1区有て家数2軒あり。
東は家数12軒、東西1町40間・南北50間。
西は家数19軒、東西43間・南北1町42間。
共に四方田畠なり。
東2町14間
小荒井組沖村の界に至る。その村まで4町20間余。
西35間・北58間、共に
萬力村の界に至る。その村は北に当り5町50間余。
南3町54間
赤星村の界に至る。その村まで5町50間余。
また
未申(南西)お法4町30間
大沢村の界に至る。その村まで7町。
山川
櫁川(式部川)
式部川ともいう。
村西4町にあり。広8間計。
小荒井組長尾村の境内より来り、南に流るること40間余
大沢村の界に入る。
神社
熊野宮
祭神 |
熊野宮? |
相殿 |
稲荷神 2座 |
伊勢宮 |
妙見神 |
鎮座 |
不明 |
村中にあり。
鳥居あり。上三宮村高村能登が司なり。
寺院
岩松寺
村中にあり
曹洞宗宮現山と號す。
文禄2年(1593年)曹洞の徒俊的1宇を剏建して正福寺と名く。その後荒廃し、寛永19年(1642年)府下
天寧寺町宗英寺の住僧松鶴再興し今の名に改て宗英寺の末寺となる。
本尊地蔵客殿に安ず。
妙見堂
境内にあり。
熊野宮
同上。
村名について
明治8年(1875年)、能力村、新尾田村、万力村、鎧召村が合併して四奈川村になる。
明治22年(1889年)4月1日、町村制の施行により、天沼村、吉沖村、四奈川村、大田木村、会知村、遠田村が合併して堂島村が発足。
昭和29年(1954年)7月1日、塩川町・姥堂村・駒形村・堂島村が合併し、改めて塩川町が発足。
平成18年(2006年)1月4日、熱塩加納村・塩川町・山都町・高郷村が喜多方市と合併し、改めて喜多方市が発足し、郡より離脱。
櫁川と二の鳥居
濁川の東、大木村と大沢村との間を南に流れたり。
西岸に大檀とて有。
鎧召村の西に当るこの所、新宮の二の鳥居有りしと云々。
昔祭礼の砌り櫁の御假屋立りと也。
この岸辺迄古へは新宮家町ありしという。
御手洗や 實に名にしおふ 櫁川 是拙
三の鳥居
今鎧召村の東に鳥居田という所あり。
貞享二年(1685)この所より大なる柱根掘出せり。両方二本間四間余(約7メートル)。これ古の鳥居控柱なるべし。この所に鳥居石とて土中に大石ありという。
※参考画像:神社人より引用
鎧召七ツ壇古墳群
東鎧召の東南にあって昔鎧を召してそこに副葬品として埋めたとも言い伝えられているが詳細は判明しない。
又一説には八幡太郎義家が東北平定の折(今から八八六年前)新宮熊野神社に戦勝祈願の折鎧を召しかえたところと言い伝えられている(赤星部落が八幡町、鎧召などの地名もそれらを物語っているようだ)
余談
岩松寺がありません。
塩川町史の年表に「1873(明治6年)五月、鎧召の岩松寺に三十人、塩川の代官所跡に一七二人を収容して、各小学校を開設。」との記載があるので、この時点で寺としての役目を終えたのでしょう。
となると、妙見堂の南の空き地は明治時代の小学校跡地という事になります。
その後の鎧召小学校は「1875年(明治8年)八月に、町村の合併に即応して、上窪、鎧召の小学校はそれぞれ窪、四奈川と改称」との記載がありますが、どの時点で堂島小学校に移行したのかは追えませんでした。
最終更新:2025年08月23日 17:50