府城の西北に当り行程4里31町余。
家数35軒、東西1町12間・南北2町56間。
四方田畠にて西は山に近し。
東4町11間
小荒井組小荒井村の界に至る。その村まで15町20間。
西17町14間
木曽組洲谷沢村の端村一郷の山に界ふ。
南7町23間
松野村の界に至る。その村は未申に当り15町30間余。
北4町8間
見頃村の界に至る。その村まで10町余。
小名
下在家
本村より未申(南西)の方5町にあり。
家数10軒、東西54間・南北1町6間。
四方田畠にて西は山に近し。
小原
本村より辰巳(南東)の方2町にあり。
家数6軒、東西40間・南北40間。
四方田畝なり。
端村
牛尾
本村より戌亥(北西)の方2町にあり。
家数2軒、東西23間・南北1町13間。
西は山に傍ひ三方田圃なり。
山川
濁川
村東2町10間余にあり。
見頃村の方より来り、南に流るること1町50間余
小荒井村の界に入る。
神社
腰王神社
村西2町10間、山上にあり。
鳥居あり。
(別当は四天王の木像を安置せる故古四王といえり。像は聖徳太子の作という)
この山松杉蓊欝として鶴の翼を張れるに似たり。故に鶴松という。
別当 大重院
本山派の修験なり。先祖詳ならず。
中興圓長より現住直圓まで12世なりという。
寺院
長傳寺
村より戌(西北西)の方にあり。
腰王山と號す。曹洞宗慶徳村慶徳治の末山なり。
天文2年(1533年)長傳という僧開基して慶徳寺5世一峯を請て開山とす。
観音を本尊とし客殿に安ず。
古蹟
界塚
村北1町40間余、田の中にあり。
高5尺・周9間計。
新宮・加納両荘の界塚なりという。
またこの辺に壇2あり。来由詳ならず。
児塚
村より午未(南~南南西の間)の方1町余、田畝の中にあり。
高1尺余・周3間。来由を詳にせず。この塚を毀ては祟りありといい伝う。
- Google Map
- 新町地区(宮在家)
- 宮在家地区(下在家)
- 中原地区(小原)
- 丑ノ尾地区(牛尾)
- 古四王神社(腰王神社)
- 古四王神社奥の院(腰王神社。山上)
- 大聖歓喜天(旧長伝寺)
- 位置的に旧長傳寺かと思うのですが崇めている仏様が観音様じゃなくなっています。歓喜天とは頭が象の仏様(ガネーシャ)の事です。
- 50年以上無住職で慶徳寺が管理しており、現在は正月のお大般若会の時くらいしか使われていないそうです。GoogleMap上で大聖歓喜天となっている理由は不明との事。(とんりすんがりさんより)。おそらく登録した方が間違ったのではないでしょうか?
- 界塚 - 見当たらず。
- 村近くに台ノ下という地名があり、この地の北にある水路が境界となっているようです。水路の南側が慶徳町、北側が上三宮町。
- 児塚 - 現存せず。
- 元はこの辺りにあったそうですが、昭和40年代に耕地整理で取り壊されたとの事。昔舞台田の稚児舞に加わった千光寺(もしくは西蓮寺)の稚児たちの間で起きた喧嘩で運悪く亡くなった子を埋めたとの伝承があるそうです(とんりすんがりさんより)
余談:市千魂命について。
ちょっと曖昧なのですが…。
先代旧事本紀によればこの神は中臣氏の遠祖で
武御雷神と同じく雷の神様だそうです。
※国立国会図書館『先代旧事本記 巻一』(8コマ目)より
津速魂命 - 神世七代の7代目として誕生(伊弉諾・伊弉冉とは別)
┗市千魂命
┗興台産霊命(または武御雷神とも)
┗天児屋根命
┗天押雲命
┗子孫に中臣阿麻毘舎卿や中臣御食子、藤原鎌足がいる
また古四王神社の本社は秋田にあり、四道将軍大彦命の蝦夷平定後に創建されたとあります。祭神は大彦命と武御雷神で、会津風土記に記載されている市千魂命では無いようですが繋がりが見えます。
なお、古四王神社と関連する神社は東北地方の各地にあり、漢字は違えども「コシオウ」と発音する名前が付けられています。面白そうな内容ですが本記事ではここまでとします。興味のある方はWikipediaあたりを見てみてください。
蛇足1。
村西に
琴平山という山があり、山頂付近に金毘羅神社があるようです。
宮在家(新町)地区の西に喜多方市野鳥の森という所があるのですが、その案内板にこの辺りの山に何があるのか載っています。風土記に記載のある千光寺跡(経塚)もこの林道の先にあります。
蛇足2。
地理院地図を見ると宮在家村の西の方に雙座松(そうざまつ)と書かれています。この辺りは雙座松峠というらしいのですがあまり情報がありません。知りたかったのはこの松と鶴松との関係なのですが…。
とあるブログにこの峠について記載があったので一応載せておきます。
最終更新:2020年09月03日 17:28